解釈の余地が絶対的なカリスマを生みだす。
ある種の中心性の無さというのは、かえって中心を絶対的な存在にするのかもしれない。
※このnoteは、Podcast番組「漫画とうごめき」で語っている言論部分を文章化したものです。漫画とうごめき本編は、最下段のリンクからどうぞ。
たとえば、優れたアーティストがいるとする
優れたアーティストがある作品を生み出す。
その作品は、観る人の中に強い情動を生み出すものであった。
アーティストは、作品の意図や意味をはっきりとは語らない。
断片的なメッセージのみを残して、後は観る人の解釈に委ねられている。
強い情動を感じた人は、その感動から思考を進めていく。
この作品には、どんな意味があるのだろうか?
アーティストは何を意図しているのだろうか?
思考を重ねたある人が、自分の解釈をもって作品の解説をする。
その解説を多くの人が聞く。
作品は多くの人に理解されるようになる。
その理解の元、作品から派生した新たな表現が生み出されていく。
ひとつのムーブメントが生まれる。
しかし、その理解とは異なる解釈を語る人が出てくる。
その理解を信奉する人たちは、異なる解釈を異端とみなして排除しようとする。
異なる解釈を信奉する人たちも、その理解を否定して自分たちの正しさを主張する。
相互に異なる解釈同士で争いだす。
ところで、作品を生み出したアーティストはというと、沈黙を続けている。
断片的なメッセージだけを、ときたま発するだけで、相変わらず解釈は聞く人に委ねられている。
解釈同士が争っていることに関しても介入しない。
いや、介入できないのだ。
どちらも正しくもないし間違ってもいないのだ。
介入の余地はない。
しかし、争う解釈同士にとって、間違いなく絶対的に正しいと言えるのは、作品を生み出したアーティスト、ただその人だけなのだ。
アーティストは、やがて絶対的な中心のカリスマとなった。
アーティストの死後、その構図はより広がりをみせていくこととなる。
権限のない権威。ある種の中心性の無さ。
ドーナツの正体は、その真ん中の空洞なのだ。
という妄想のお話。
Podcast版はこちら
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?