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漫画とうごめき#14

しゃんおずん(XIAN OZN)さんの作品『飛行文学』をテーマに、連想される事柄や文化、思考を綴っていきます。

※このnoteは全力でネタバレをします。漫画『飛行文学』をまだ読まれていない方は、まず先に『飛行文学』を読まれてから、本エピソードをお楽しみください。


トーチweb 飛行文学


感想

僕はこの漫画を初めて読んだ時、正直まったく意味が分からなかったんですよね。
中学生の女の子2人組が主人公で、2人の視点で話が進んでいく。
一個一個の話はショートストーリーのようになっていて、脈絡なく話が展開されていく。 「読み進めていけば、話が見えてくるのかなー」と思って、読み進めるが、話はどんどんよく分からなくなっていく。

しかし、一個一個の描写がめっちゃかっこいい。
芸術的な視覚表現や、映画のような表現もある。 ところどころ意味のありそうな話の筋が見えてくるが、すぐにどこかへ流れていく。
そして、気づけば話を全部読み終えてる。

といった感じで、意味は最後まで分からないんですけど「あ、これが飛行文学なんだな」と勝手に納得しました。

漫画の内容

なんというか、これは僕の中でかなり衝撃的な作品だったので、できるだけ言語化に挑戦したいと思うんですけど、
漫画の紹介文には「あらゆる”いつか”を横断していく変幻自在の空飛ぶ文学」とあってですね、まさにその通りなんですよね。

中学生が主人公というところから連想すると、中学の時、授業中にボーッと、真っ青な空に飛ぶ飛行機を眺めているような、そんな感じのイメージですかね。
ありふれた日常の景色でもあるし、何か抒情的なものを感じる情景でもある。
何にでもなれるし、何でもない日常が続いていくというか。
中学の時の世界を大人になった今、思い出すとこんな感じだっよなー、みたいな景色でもあるわけです。
ゆるやかに刺激のない、可能性と幻想に満ちた世界、というかですね。

話の中身も、どこか夢の中の話のような、現実と幻想の間を行ったり来たりしてるような雰囲気があるんですよね。

例えば、2人が野球してて、ボールが民家に入っちゃったのでその家に行く、というシーンがあるんですよね。「すいませーん」つって。
で、出てきた女性は、主人公のことを知っているようで「もしかしてみやびちゃん?」て聞いてくるんですよね。
ただ、主人公は覚えてなくて、「覚えてないわよね、ずいぶんちっちゃかったから」つって、
で、「うちに金魚いるんだけど見ていかない」と言ってくるんですね。
で、主人公たちが家の中に入ると、水族館みたいな水槽に人間よりでかい金魚が泳いでるんですよね。
で、主人公たちは「きれい!すげー」て言う、みたいな。

アンダルシアの犬

基本的にこういう話が続いていくんですけど、どことなくシュルレアリスムというか、20世紀の前衛芸術の空気感を感じるんですよね。

例えば、ダリとブニュエルが共同製作した映画「アンダルシアの犬」のようなですね。

アンダルシアの犬は1920年代の映画ですけど、シュルレアリスムを象徴する映画ですよね。
この映画は、話にプロットがなくて、最初から最後まで話がつながってない映画なわけですけど、この支離滅裂さと映像の不気味さがヤバい。
剃刀で目玉を切ったり、死んだロバを引きずったり、ですね。
で、この映画は作者の2人が見た夢が元になっているそうなんですよね。 なので映像は現実の景色でありながら、現実ではないことが連なっていく。超現実が描かれてるわけですね。

ダリもそうですけど、そういった夢や無意識を捉えて芸術に落とし込むっというのが、 シュルレアリスムの特徴ですよね。

これは近代社会において国というものが国民国家化し、社会が工業化していくことへのカウンターだととも捉えられる訳ですね。
で、この近代社会の基盤となっているものが「理性による統治」ですよね。
なので、シュルレアリスムは理性ではない部分、主に無意識の探求をしていく芸術活動なわけです。
で、それはダダイズム的な「既成概念を破壊して、個人の欲求を解放する」という流れとも繋がっていく。
なので既存の芸術ではあり得ない表現だったり、 不気味で幻想的な表現というのが出てくるわけですね。

そう考えると、飛行文学も既存の漫画にある表現とは、明らかに一線を画してる表現な訳で、カウンター的なものを感じたんですよね。

ダリの手法

漫画の中身をもう一個話すと、
2人が謎のキラキラする物体を追いかけて、街中を冒険する話があるんですね。
で、トンネルの中へ入ったり、でかい橋を渡ったたり、崖を登ったりする訳です。
で、最終的に辿り着くのは2人がよくいくスーパーだった。みたいな。

「なんだいつものスーパーかー、あると思ったのに、日常のすぐ裏に何かワンダーなことが」 つったりしていて、 「でもまあ、謎の光に導かれて、近所のスーパーにたどり着くっていうのも、我々の日常そのものだから、そのコントラストがワンダーさを際立たせるからいいよね」みたいなことを言うシーンがあるんですよね。

ここらへんのセリフも、ダリっぽいなと思っていて、 ダリでよく思い浮かべるのは、ぐにゃぐにゃにとろけた時計の絵だと思うんですけよね。
で、ダリはそういう日常にある物体のイメージに、あり得ないイメージを組み合わせる「ダブルイメージ」という手法をよくやる訳ですね。
そうやって描かれる日常と幻想のコントラストっていうのは、より我々の無意識に感じてる部分を抉られるような感じがしますよね。

60年代カウンターカルチャー

で、こういう無意識に対するアプローチっというのは、その後の60年代のカウンターカルチャーやヒッピームーブメントの系譜、とも読み取れる訳ですよね。

60年代に入って、ハーバード大学の教授だったティモシー・リアリーが、幻覚剤を使用した精神療法をはじめる。
彼は心理学の研究者で、対人間の相互作用で人格が構築される。という理論のもと、さまざまな精神療法をやっていた方ですね。

で、あるとき、幻覚剤での意識の拡張、意識の変容を経験する訳です。 それは他人の意識に入り込んで、相手の考えていることがわかるような体験で、それによって瞬時に悟りのようなものを開けるんだと。
で、それによって社会に刷り込まれた意識から解放され、意識の自由を手に入れるんだ、みたいなことを言うわけですよね。

その幻覚剤というのは、もちろん今では違法ですけど、主にLSDのことですね。
で、この流れが大量生産大量消費、人間が均一化され工業化することへのカウンター、ヒューマンビーイングと合わさって、一大ムーブメント、ヒッピームーブメントになる。

とまあ、かなり乱暴なまとめ方ですが、ざっくりいうとそんな感じですね。
理性の統治へのカウンターからはじまった、夢などの無意識の探求は、ドラッグの幻覚作用に移行していき、大きなうねりになっていった、と捉えられますね。

それがいいかどうかは別にして、このカウンターカルチャーの流れや、ティモシーリアリーの話は個人的に結構ツボなんですよね。

NMCT

余談ですが、飛行文学の作者のしゃんおずんさん、他にもNever mind come togetherという作品も出されていて、これもめっちゃおもしろいんですよね。
この漫画のタイトルの一部、come togetherっていったら、ジョンレノンが、ティモシー・リアリーへ送った曲のタイトルなんですよね。
なんか、ティモシー・リアリーがカリフォルニア知事選に出馬するつって、そしたらジョンレノンが応援ソングを送るてなって作られたそうなんですよね。 ただ、そのすぐ後にティモシーリアリーは、マリファナ所持で逮捕されて出馬しないんですけどね。

流石にそこらへんの流れを意識されたタイトルではないと思いますけど、 なんかそういうカルチャーと関連して考えたくなる雰囲気があるんですよね。
で、come togetherって、「一緒に行こう」「同じになる」みたいな意味以外にも、ドラッグやセックスでイクっていう意味もあるらしいので、この漫画のタイトルなら「イってる場合じゃない」みたいな意味ですかね。
そういえば「いっちゃってんなー」が口癖のキャラクターとかも出てきますもんね。

と、これは完全に余談ですが、それだけしゃんおずんさんの漫画は、色々考えさせられるんですよね。

コミュニタス

飛行文学の話に戻ると、 こういった中学生の時代の子供でも大人でもない時の不思議な感じって、哲学の分野で言うなら「コミュニタス」という概念が当てはまると思うんですよね。

コミュニタスというのは、文化人類学者のヴィクター・ターナーが言ってる概念なんですけど、社会を構成する二つの要素の片側のことですね。
で、その二つの要素というのは、「構造」と「コミュニタス」ですね。

ここでいう構造というのは、日常的な社会的規範や関係を示すもののこと、ですね。
で、コミュニタスは別名、反構造というんですけど、構造に対立する概念であると。
で、非差別的、平等的、非合理的な社会状態のこと、とあります。

ちょっとよく分からないと思うんですが、これを理解するには、通過儀礼という概念を知っておく必要があるんですよね。

通過儀礼とは、人生の節目に経験する儀礼のことで、例えば日本の文化で言うなら、結婚や出産や死、だったりですね。
あとは子供から大人になる儀礼とかですね。
で、儀礼というのは、個人の地位や身分が変更される際に行われること、とあります。

で、それらの通過儀礼には、大まかに3つの局面があるんですね。
まずは、現在の状態からの「分離」。
次は、どの状態でもない「過渡」 。
3つ目が、新しい状態に向けた「統合」です。

この2つ目、過渡の状態の時に起きる社会状態がコミュニタスというわけです。

なので中学生がコミュニタスと考えるなら、 子供として過ごす現在の状態から分離をして、 中学生のどちらでもない状態を過ごして、 やがて大人に統合されるみたいな理解ですね。

で、コミュニタスの状態の時は、他の状態とは社会構造が違うんだと言ってるわけです。
他の状態は、いわゆる政治的、法的、経済的に構造化された社会。

で、コミュニタスの状態は、 平等な個人で構成された未分化な共同体としての社会の様式にある、と言われてます。
単純化すると、社会的に構造化されていない自由で平等的に過ごす仲間達、みたいな感じですかね。ちょっと違うかもしれないですが。

で、コミュニタスはヒッピーなどの社会現象にも現れると言われてるんですね。
ヒッピーは、社会秩序の外側を選択して浮浪者のような衣服を纏うと。 で、社会的義務より個人的人間関係を重視していて、それは一般的な社会構造とは異なるわけです。

まあ、既存の社会構造へのカウンターであるわけですからね。
そう考えると、中学生の時もそう言ったカウンター的な精神が育まれる時代でもあるわけですね。初期衝動的な。
ただ、コミュニタスはあくまでも儀礼の通過点なので、ずっとは続かないわけです。

どちらでもない状態の者たちから自然発生的にコミュニタスが生まれるわけですが、やがてその中でも規範が生まれてくるわけです。
で、共通の目標を持とうとか、こういう制度でいこうとか、みたいなのが生まれてくるわけです。
で、それって通過儀礼の3段階目、統合に近づいていくわけですよね。

たしかにヒッピームーブメントでも、最終的には空中分解していくわけですし、その一方でヒッピーの流れからスティーブ・ジョブスが出てきてアップルを作って、今のシリコンバレーの流れに繋がると考えると、 今ではめっちゃ社会に統合されてますよね。
むしろ統合していってるのかもしれないですが。

で、今では、新自由主義的に成長し、世界中の人がiPhoneを持って、グローバルに標準化されていっている、というですね。
そう考えると、カウンターカルチャーは、統合に至るまでの過渡期だったのか? もしくは、come togetherの精神で世界を包摂していってるのか?

ここら辺は次回また考えるとして、この漫画の主人公たちもいずれは社会に統合されるのでしょうかね。
それとも飛び続けるのか。
それは分からないですが、個人的には飛び続けてもらいたいですね。

はい。というところで今回は以上です。

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