十円硬貨

 古い十円硬貨を収集している。明治時代の金貨ではない。あの10円玉である。
 手元にやってきた10円の製造年を見る。昭和45年より後なら財布に入れる。44年より前の古い十円(1970年というキリのいい数字を基準にしているというのもあるが、経験上ここを区切りにして流通している枚数が大きく違っているといえる)は、カバンの外ポケットに放り込んでしまう。そして自分の部屋に戻り、彼らを信玄餅の空袋に入れる。50枚目標で、今13枚ある。私は何があっても彼らを使うことはしないと決めている。つまり、彼らは私の手元にわたった瞬間から、私が所有者である限り永遠に10円の価値を失うのである。これは大きな矛盾のように思える――収集家は通常あるものの価値を認めてコレクションに加えるのに、加わった瞬間それは価値を失う。
 しかし、これは矛盾ではないと私は考える。ここでは、前者の価値は歴史的遺物的な古銭としての価値であり、後者の価値は貨幣としての価値である。私は手元の彼らに古銭としての価値を認めていない(使い込まれており実際大した価値はない)ので、私が10円玉から価値を剥奪しているという構図になっているが、構造的にはこれと同じことである。
 価値の剥奪。これはつまり、そのものに価値を認めている、ある文脈からの切断である。信玄餅の袋の中で、彼らは彼らを通貨として扱う文脈から切り離されている。
 ところで、ここではこの逆は成立しない。10円という価値は社会や経済があって成立するものであり、そこから切り離したことで文脈からの切断が可能になる。逆に、私一人が何かに10円の価値を認めたところでそれが社会に認められることはないからだと考えている。しかし、ひとたび所有してしまえば金塊を無価値にすることも可能なのではないか。だれかやってみてほしい。

 個人が所有するもっと面白いものを考える。それは自分自身だ。これは経年などとともに社会的な地位が変わるので完全に所有しているとも言えない気もするが、私は基本的に人間の自由を信じているのでここでは言い切ることになる。しかし私はたいして考えずにこの文章を書いているので、論理的に破綻したら修正する。砂肝おいしかった。
 たとえば我々は、やろうと思えば小学生のような夏休みを送ることができる。絵日記や町探検や学校探検、アサガオを育てたり自由研究をしたりといったことを、驚くべきことに我々はできるのだ。しかし誰もやろうとしないのはなぜか。それは我々が文脈を切断したためである(やる必要がなくなった、というのはもちろんそうだけど)。それではそれを再び接合することは出来るか?おそらくできない。新たに獲得した文脈の妨害を受けるためである。ゆえに、あの頃の夏休みは不可逆であり、だからこそそれに憧憬を抱くのではないかと思う。
 しかしそれでいいのか。そうして「中高生のような」と表現される恋愛を失い(諸事情により若干困る)、クレーマーに黙って頭を下げる人間が大人と評価され(これは今そうでもないような気もする)、新幹線すら遅いと評され(リニアはスピード感がないので好きではない)、野菜は値上がりする(うかつに野菜炒めすら作れない)のである。だからやたらとそういう企画に乗ろうとしているのかもしれない。妖怪ウォッチもやろう。絵日記もつけよう。私に田舎はないけど電車とバスで田舎の方に行ってやたらと歩き回ろう。市民プールも…。
だめだ、できる気がしない。10円を集めるのと何が違うのか。体力?

 とはいえ、文脈の再結合と切断はいろいろなところででき得るものと信じている。今のところ「普通の人生」とされるものに必須のものが複数個取りかえしのつかない方向にこけているが(読者各位――内臓が痛くなったらすぐに病院に行くこと、月の平均睡眠時間が4時間を切った状態で大切な話をしないこと)、こうして再度組みあがった文脈があればそれらは必要なくなるかもしれない。気が小さいので今のところ大したことはできていないが、各方位に呪詛をまき散らしつつせめて青葉山に送られるまでは元気に動き回りたい。

 まとまりのない文章になってしまった。最近文章を書きたい欲が止められなくなっている。

 あ、新入部員(C4・薬)です。よろしくねー。

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