国内ホールデム夜明け前の話(その1)
記載開始日:2020/05/06(水)
コロナ禍の影響で4/11以降に近場でアーケード(AC)に行く機会を無くしてから、今週末で4週間が経過しようとしています。ACライフ基盤の皆様、お元気でしょうか(汗
未曾有な状況とはいえ、みんなが初体験なのは一緒と思い腹をくくって自宅中心の生活で様々な呟きを見ている最中、ふと本線寄りの以下の呟きが目についたのでつらつらと書いてみることにしました。飽くまで与太話の一部なので、当面は無料公開で失敬します(汗
黎明期~第1世代 1980年代?~2005年
— しまぽ (@shimadapoker) May 5, 2020
パソコン通信とかヤフーポーカーとか新宿のパンドラ?とかいう店などで愛好家が交流を深め、日本ポーカー界の基礎を作る。
都内ですら店舗はDukeと上野ルームしかなかった。あとはリゾポカという交流団体と、大阪で大阪ポーカーオフという団体があったくらい。
先ずは筆者のACカジノ歴からですが、高校2年の冬頃に部活(マネージャー兼業)の所用で新宿の旅行代理店との相談の帰り道に7スタッドの卓を目にしたのが切欠でして。延べ三日間(4時間)程窓から見物後に始めたものの少し齧る程度しか行きつかないまま大学進学準備など色々あって一度頓挫したのですが、大学入学直後数か月で体育会活動と決別した後に自力でのバイト収入が見え始めた頃に復帰したという流れで片足突っ込み始めました。
復帰時は西暦1987年、場所は新宿の靖国通り沿い(歌舞伎町界隈)。丁度バブル景気の下降が見え始めた頃でしょうか…当時のACカジノはルーレット(0,00まで)、ポーカー卓(7スタッド)の併設が主流で少し広いとBJ(メキシカン寄り?)があった感じ。復帰前に齧ったのが「マーメイド」、復帰後は「スターダスト」が主軸でポーカーが可能なところに「モナコ」が噂で聞いていた程度でした(後々に「フラワー」もあるのですが、こちらはプレイ経験が無いので割愛)。
当時は本土の東海岸で主流となっている 7 stud を持ち込んだのが始まりと聞いていました。上記Twitterに出ているパンドラ(靖国通り沿い時代)は当時「ルーレット教室」と銘打っていたためポーカー卓は無かったと思います。
ベット/ポット獲得者決定ルールは上記に挙げた3店舗様々で、現在のポットリミットとほぼ同等だったものは「タップアウト制」と呼ばれていました(チェックレイズ・コールレイズ禁止のみ異なる)。他には「ハーフポットリミット/最少レイズ制限無し+オールイン制」「シャイン制」がありましたが、主流じゃないので詳細は割愛で(汗
貸しチップイメージは高めのメダルと同じ認識で、ホームは千円で1万点持ち+ストック1万点引き出し/シャッフル間のみ買い足し可能→手持ちあればストックして随時離脱可能。1回で購入する金額が多ければその分ボーナス点が追加される感じでした。実際、1万円分纏めて購入して無くなったら退避(時間が来たらあるだけストック)する常連さんもいた時代です。
当時学生側にいた私らとしては「千円でいかに遊ぶか」の基盤でやっていまして。偶にスロット(当時期は1.5~3号機が主流)で勝った持ち金を節約しつつ遊ぶ感じで楽しんでいた時期。風営法も確立していたけれど、夏休み期間の昼間とかはルーレットに中学生がメダル感覚で集まって遊んでいた時代だったかな…兎に角、費用を削りつつ23時半ギリギリまでよく遊んでいた時代でした。
ただ商業形態もある程度確立していたものの長くは続かず、時期はおぼろげなのですが…自分のホームにしていた場所は1992年界隈に発売された「ウルトラマン」が多数置かれた形で閉鎖されたのを覚えています。ホーム終焉時は地下営業の「モナコ」とエルニド(低換金スロ屋)が入っていたビルにあった「ラスベガス」(こちらは8スタッド基盤)が細々と続いていた記憶があります。
当時のホーム(新宿)終焉後の拠点は池袋に移行していまして。女性ディーラー軸の「トレンディ」(細かい場所は忘れてます)と「池袋GIGO」(現在はプリクラ設置フロアがカジノエリアだった)が主な軸だった記憶が。「池袋GIGO」に至ってはクラップス台も(何を間違ったのか)存在していました。
細々と回って遊んでた時期、父親の鬼籍入りを見送って路頭に迷ってた時期に「ビートマニア」稼働(1997/12)が始まり、ACカジノ寄りを一休みする流れに乗れたといった感じです。
自身がホールデムを嗜み始めたのはこの後(2000年終盤より再開)なのですが、復帰時の本拠については別の題で書いていきます。