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みらいが呼んでる②

 美香に謝り、なんとか締め切りを1週間のばしてもらうと、私は泣き叫ぶみらいを押さえつけながら、みらいの鼻に口をつけて鼻水を吸い出した。ここ数日で幾分か手馴れたそれは、けれど私の免疫をダイレクトに刺激し、今度は私が風邪をもらってしまった。だからと言って、ゆっくり寝かせてもらえるほど母親と言うのは甘くなく、熱で朦朧とする身体をひきずりながらみらいにおっぱいを咥えさせる。満足げにおっぱいを飲んでいたみらいは、げほっとむせてミルクを吐き出したのと同時に、大声で泣き出した。鼻が詰まっているせいで、上手く飲めないのだ。「あー、そうだね飲めないねー。ごめんねー、つらいねー」
 わんわんと声をあげるみらいを抱っこしながら、ティッシュで適当にみらいの口を拭く。ティッシュじゃ痛いからちゃんとガーゼを揃えておかないとと国内製のガーゼを買い込んだのはほんの数ヶ月前の出来事で、ああみらいがこの世に生を受けてからまだたったの数ヶ月しか経っていないんだと呆然とした。この数ヶ月、三時間おきの授乳が四時間おきになるまでの間が、とんでもなく長く感じたのに、これがあと何年も続くというんだから子育てというのは恐ろしい。いや、むしろ今より大変なのかもしれない。来月になれば離乳食が始まり、数ヶ月もすればはいはいを始め、一歳を過ぎれば歩き出し、二歳を過ぎれば話せるようになる。今度は自我が出てわがままを言い始めるであろう我が子に、私はどういう風に接したらいいのか、全くわからなかった。
 みらいは、病院で出た薬もむせて吐き出してしまうことがほとんどで、様子を見てくださいとは言われたけれどいつまで経ってもよくならなかった。お医者さんの言う様子見はどの程度まで様子見なんだろう。深夜に帰ってきた和之が全然風邪の治らないみらいを心配して、もう一度夜間診療をしている総合病院に連れて行ったのだけど、やっぱり様子見は変わらず様子見のままだった。
「こんなにつらそうなのに、よく仕事できるな」
 やっと寝付いたみらいをベッドに寝かせ、パソコンに向かっていると、和之がそう言った。
「本当に様子見で治るの? 取り返しがつかなくなったらどうするの?」
 そう言いながら和之は寝室に向かい、翌朝はいつも通り出社していった。鼻水を吸われぐずぐずしているみらいを置いてうがいをしても、喉のイガイガが引っかかって取れない。例えばもし本当に和之の言う通り手遅れになってしまったとして、それはやっぱり母親である私のせいになるのだろうか。
 みらいを抱っこであやしながら、妊娠が発覚した日のこと思い出した。私はもう二カ月来ない生理にもしかしてと嫌な予感を抱えていて、嫌な予感というと聞こえが悪いけれど別に子供が欲しくなかったわけではなく、ただ私たちにはお金がなかった、それだけなのだけど、とにかく嫌な予感が予感のうちは和之には言わないでおこうと一人で検査薬を購入し、検査したのだ。
 その日、私は人生で一番長くトイレにこもっていたんじゃないかと思う。
 検査薬の結果は陽性で、私は何度も何度もその赤紫色のラインを睨んだ。まるで親の仇のように睨んだ。最初に湧き上がった感情は喜びではなく、どうしよう、という不安で、これを伝えたら和之はどんな反応をするんだろうかという不安はもちろんのこと、子供を産んだとして私はイラストの仕事を続けられるのだろうかと、そういう不安もあった。子供のことばかりに時間を取られて、子供に自身の夢を押し付けて、そうしてただの平凡な母親として立ち振る舞っている女性を私は幾度となく見て来た。私の母親もそうだった。私はあんな平凡な人生を、これから送るのか。平凡を絵に書いたような和之と一緒に、送るのか。それで私は耐えられるのか。ああ、こんなことばかり考えるなんて、私はなんて性格が悪いんだろう。
 悩んだ末、和之にはこの時点で妊娠の可能性を伝えることにした。陽性反応を示す赤紫のラインをしげしげと眺めた和之は、次の瞬間満面の笑みになって、「よかったじゃん! ありがとう、あかり!」と私を抱きしめた。何にお礼を言われているのかよくわからなくて、私は目を白黒させて、そんな私に和之は「俺を父親にしてくれて、ありがとう」と改めて言い直した。「不安じゃないの?」と聞けば「不安じゃないことはないけど」と和之は笑い、「でも、二人で頑張ればなんとかなるでしょ」とやっぱり何の確証もないセリフを吐いた。今思えば一家の大黒柱としては頼りない以外の何物でもないセリフだけれど、そのときの私は「そっか」と思ってしまったのだ。「そっか、一人じゃないなら、なんとかなるのか」「そっか、よかったじゃん、なのか」
 そうして今、私は一人でみらいと向き合っている。二人で頑張ればと言った和之は、今日も仕事に行って、みらいは風邪で、私は手つかずの仕事を抱えて、今日もみらいを抱っこしている。これが私たちの望んだ未来だったのか、私たちは正しい未来に向かっているのか、わからない。何度考えてもわからない。ただ、和之と手を繋いでドキドキしながら産婦人科へ行ったとき、病院の美人な先生が「おめでとうございます」と言ったとき、エコー写真に写る黒くて小さな塊を「赤ちゃんだ」と説明されたとき、あのときが私の人生のピークだったように思う。産みたいと思った。絶対元気な子に産んであげたいと思った。あの気持ちは嘘じゃない。嘘じゃない、のに。
「ごめん、みらい。ママちょっとお仕事しなくちゃ」
 そろそろ日が暮れようという頃、私は根負けしてみらいをベッドに寝かせた。下ろされたのが不服だったようでみらいはまたぐずぐずとし出し、大きな目を潤ませて、口をへの字に曲げる。ああ来る、これはだめだと思った瞬間、みらいは「あーっ」と大きな声で泣き出した。
どうして誰も教えてくれなかったんだろう、と思う。本当に大変なのはお産じゃなくて、その後に待っているゴールのない子育てで、しかもそれはゴールがないどころか正しかったのか間違っていたのかその答えすら一生わからないのだ。
「みらい、ほんとごめん。すぐ済むから」
 みらいが泣いている。でも、私は仕事をしなくちゃいけない。
 あーっ、あーっという泣き声が響き渡る中、私は机に向かった。生まれてすぐはあんなにか細かったみらいの泣き声も、今では随分立派になって成長の早さを感じる。そして、その分頭痛を感じる。喉のイガイガに耐えながらパソコンに向かってペンタブを握っても、思う通りのイラストは全然書けなくて、頭の中に完成像は浮かんでいるのにどうしてそれを形にできないのかとイライラする。イライラをイガイガのせいにしながら、私は机に突っ伏した。
 みらいが泣いている。ママはどこだと泣いている。
 まただ。理想と現実のバランスが取れていない。きっとみんなどこかで折り合いをつけながら、上手く生活しているのに、私だけがおかしな天秤をぶら下げて、あるいはぶら下がって生きている気がした。ずっと一人で暗い道を歩いていたはずなのに、気付けば世界は明るくなって、進むべき道が見えるようになって、そして、私は一人じゃなくなった。私の手を離れれば生きていけない小さな生き物を抱えて、迷わないように、間違えないように、一歩一歩ゆっくりと歩く。でも時折振り返りたくなる。振り返っちゃだめだと思うのに振り返りたくなる。ぴかぴかのネイルに流行の巻き髪、ブランド物のバッグ。私が欲しかったのはそんなものじゃない。それはわかってるけど、じゃあ、私の欲しかったものって何なの?
 私はため息を一つつくと、立ち上がって、みらいのベッドに近づいた。そっと抱き上げれば、みらいはほったらかされていたことを抗議するように再び大きな声で泣いた。
 人は、理想通りの現実にならないから絶望するんじゃないんだなと、そのとき初めて気が付いた。理想が現実になって初めて、それが理想だったと気付くから絶望するのだ。独身のときは、結婚に、結婚してからは、子供に、子供ができてからは、仕事をしていた頃の自分に。理想通りの自分を手に入れて初めて、それがただの理想だったことを知る。

「俺さ、転職しようかなと思ってるんだよね」
 その晩、みらいが寝付いた後に帰ってきた和之は、私が温めたご飯を食べながらそう言った。食卓の横のデスクで、必死にパソコンにかじりついていた私は和之の声を聞き逃していて、「んー」とだけ返事をする。すると、もう一度和之が言った。「転職。ねぇあかり、大事なことだからちゃんと聞いて」
 大事な話を、こんなに忙しいときにされても。そうは思ったものの、作業も捗ってはいなかったし、私はしぶしぶ顔を上げた。和之は私の顔を真っ直ぐに見ながら、言葉を選んでいるようだった。
「うちの会社、人の入れ替わりが激しいからさ。最近、立て続けに古い人たちが辞めちゃって、その分現場仕事とか、俺の負担が増えてるんだよ」
「うん」
「責任が大きい仕事ももちろん増えた。それにはやりがいを感じてる。ただ、俺も会社で抱えるストレスが半端なくて、家に帰っても仕事のことばかり考えちゃうし、っていうか帰りが遅くなるし、有休も取れないし」
「うん」
「あかりにばっかり無理させてるんじゃないかなって、ずっと気になってたんだよね」
「うん」
「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」
 聞かれて、改めて考えてみると、話の半分も聞いていなかったかもしれない。和之の口から出る仕事仕事という単語は、その分私を責めているようで、追い詰めているようで、俺には仕事があるからお前が育児頑張れよと言われているようで、頑張れって、私は充分頑張ってるよ、もっと頑張れって言われたってもう無理だよ、いっぱいいっぱいだよ、そんなことばかりが脳内をぐるぐるまわるから本当にそろそろ限界なのかもしれない。
「……転職は、いいんだけど。新しい会社は決まってるの?」
 消え入りそうな声、というのはこういうことを言うんだろうなとどこか冷静に思いながら、私は和之を見た。和之は、途端に目を逸らす。お茶碗の中に残った米粒を見つめる。
 和之は、いつもそうだ。私が目を合わせると、必ず目を逸らしてしまう。面と向かって話をしているのに、大事な話だと言ったのはそっちのほうなのに。
「それが、まだ」
 和之の声も、例外なく消え入りそうだった。
「辞めてから転職活動したら、下手したら二カ月も三カ月も給料が入ってこないし、それは無理だから、働きながらしようと思ってるけど。そうすると、多分、今より残業が増えるだろうし、代わりに土日出勤とかになるかも」
 ああ、やっぱり。和之の言葉はいつも私を責める。追い詰める。
「和之が決めたことなら、反対はしないけどさ。転職するんだったら、妊娠中にでもしといて欲しかった」
 言い方が思ったよりきつくなってしまい、和之もムッとしたように黙ってしまった。重い空気が、リビングに停滞する。二人だったときはあんなに幸せだったのに、楽しかったのに、三人になったら幸せが増えるんだとばかり思ってたのに。こんな思いをするくらいなら、するくらいなら、私は。

「もうー、なんで泣き止まないのー? どっか痛いのー?」
 翌日は、朝から雨が降っていた。いつまで経っても治らない風邪とこの天気がかけ合わさって、みらいの機嫌はすこぶる悪い。いくら遊んでも鼻水を吸ってもみらいの機嫌は一向に直らず、明らかに眠いはずなのにベッドに寝かせてもぐずぐずと泣き出すばかりで、もう何度目になるかわからない抱っこを続けながらぐるぐるとリビングをまわった。
「みーらいっ、みーらいっ」
 変な音程をつけて名前を呼んでも、泣き声は大きくなるばかりだった。いつもはこっちが笑って見せればつられたようにみらいも笑ってくれるのに、こういうときはそうはいかない。赤ん坊には大人の作り笑いが見抜けるようで、こっちが必死に作り笑いを浮かべているときに限って絶対に泣き止んではくれなかった。
「ほーら、大丈夫、大丈夫だよー」
 むしろさらに大声をあげて泣き出すみらいに、途方に暮れる。延ばしてもらった締め切りが迫っていた。やばい。完全にやばい。
 今日は雨だから、みらいをベビーカーに乗せて散歩に行くわけにもいかないし、音楽も絵本もおもちゃも、何も効果がない。そうだ、子供向け番組を見せればいくらか機嫌がよくなるかもしれない。今まで意図的に見せるのを避けていたテレビをつけると、高校生の少年が中学生の少年を殴り殺したという悲惨なニュースが映し出された。「いい子だったんですけどね」という隣人のインタビューになんとなく不愉快な気分になりチャンネルを変えると、今度は若い夫婦が子供を虐待したというニュースが映る。
 だめだ、今日は少しだめな日だ。みらいが泣き止んでくれて、寝てくれて、私も少し寝ることができれば、この不安から解放される。あれ? 不安? 私なんで不安なんだろう。部屋にたった一人だから? 一人でみらいを見ているから?
 唐突に訳がわからなくなって、私も少し泣いた。下唇を噛みしめて必死に耐えようとしているのに、涙は次から次へと溢れてきて、どうしようこの感情を私はどうしたらいいんだろうと、何かが詰まったような胸をドンドンと拳で叩く。
 心臓が痛い。丸ごと吐き出してしまいたい。何かが体の奥に重く沈んでいて、でもその何かが何なのかは全然わからなくて、今すぐ叫び出したい衝動はあるのにどう叫んだらいいのかさえわからない、そんな感じ。
 大丈夫。みらいが泣き止んでくれて、寝てくれて、私も少し寝ることができれば、この不安から解放される。少し寝ればきっとこの訳のわからない感情も消えるし、イラストも上手く描けるし、オールオーケー。だから、とにかく早く泣き止んで。泣き止んで、私のみらい。


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