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まるでタンポポの綿毛のような③【最終話】

 人は人生のうちで、何度セックスをするだろう。そんなことを考えていたら、トイレに立ったケンイチさんがあっという間に席に戻ってきた。グラスがもうすぐ空きそうだから、もう一杯ハイボールを頼んでおこうと思ったのに。気の利く女子を演出したいという私の気持ちは、儚くも無残に砕け散り、私はせめてと笑顔を作る。「何飲みますか?」そう言いながらメニューを渡すと、彼は「いや」と小さく言い淀んでから、私を見た。
「そろそろ、行きましょうか」
 店員さんに会計をお願いするケンイチさんの姿を見ていると、やっぱりいたたまれない気分になった。彼とこうして時間を共にするのは二度目になるというのに、私はいつまでも処女のようなうじうじした気持ちで、そうして自分を正当化しようとしている。もういっそのこと大声で言ってしまいたかった。私と彼はこれからラブホテルに行くんですよと、店内に響き渡るような大声で言ってしまいたかった。私たちの隣に座るカップルも、カウンターでいちゃいちゃしてるカップルも、きっと家に帰ってからセックスをするんでしょう。でも違うんです、私と彼はラブホテルに行くんです。だって、だってね、私たちはそういう関係なので。
 店を出て少し歩けば、もうそこはネオンきらめく新宿の歌舞伎町で、彼と会う時にしかここに来ない私には、まだその光は眩しすぎた。
「まぁ、例のごとくどこに入っても一緒なんですが」
 ケンイチさんは私の斜め前を歩きながら、先日と同じような言葉を呟いた。姿勢がよくて引き締まった彼のその体を、後ろから眺められるこの時間が大好きだった。歩いている時の後姿というのはベッドにいる時より何倍も無防備だと思うのは私だけだろうか。少し歩幅を緩めた彼は、そうして一軒のホテルに入っていく。
 二つしか空いていない部屋を選ぶ時も、エレベーターに乗る時も、部屋に入ってジャケットを脱ぐ時も、彼は全てがスマートだった。この人は一体人生のうちで、何度セックスをしたんだろう。
 ケンイチさんはホテルの冷蔵庫を開けてチューハイを取り出し、私に「何飲む?」と聞いてきた。これ以上酔うと濡れにくくなるかもなどと思い、私は水を頼む。缶チューハイとペットボトルの水でする乾杯はどうも不釣り合いで、まるで私とケンイチさんのようだと思った。やがて彼がチューハイをベッドの脇に置いたのを見て、私は一層身を固くする。
「何してるの」
 それが、多分合図だった。おずおずと彼の腕の中に飛び込むと、彼は力強く私を抱きしめてくれる。彼の鼓動がここまで大きく聞こえるということは、きっと私の音も聞こえてしまっているんだろう。期待と期待と、ちょっとだけの不安。いつもこの不安定な気持ちを抱えて、私は生きている。
 しばらく抱き合ったままお酒を飲んでいたと思った彼は、ふと私の頭を撫でてキスをした。こうやって、思い出したかのように私を抱く彼の余裕が、憎らしくて大好きだ。
 穴が空いた。彼のもので、私の中に大きな穴が空く。きっと明日からまた、私はこの穴を思って、彼の指や視線を思い返して、独り空想に耽るんだろう。
 埋めてもらっている時が、私は一番安心する。埋めてもらっている時にだけ、私は私でいられる気がする。「やばい」そう言って私を見下ろした彼の熱を帯びた視線が、私を貫いて、少しだけ濡らして、だけど初めての時ほどの熱情を感じることはできなくて、もしかしたらタンポポを綺麗と思えないのは私だけの欠陥じゃないのかもしれないと、ふと思った。

「離婚することにしたんだ」
 美幸がそんなふうに連絡をしてきたのは、私がケンイチさんと四度目の密会を終えた頃だった。言葉に詰まって何も言えない私に、美幸は妙に明るい声でべらべらと喋る。
「だって、だってね。夫のことは確かに好きだったし、今でも多分好きなんだけど、でも私わかんなくなっちゃって。私は抱かれないしでも他の女を抱くし、浮気のことは問い詰めて謝らせて、それでもう二度としないって約束させたんだけどね、でもだからって、なかったことになるわけじゃないじゃん。あの人はそういうことができる人なんだって私はいつも思っちゃうし、そうするとさ、レスだってこと以外は仲良くやれてたのに生活の全部が崩れていく気がして、今まで大丈夫だった部分まで大丈夫じゃなくなっていくの。それでなんていうのかな、いつものスーパーの帰り道でね、タンポポあるじゃない、その綿毛を見つけて子供の頃みたいにふーってしたら、あれってぶわぁって風に乗って飛んで行くのよね。なんかああいう感じ。私の中身も旦那の浮気をきっかけに全部ぶわぁって飛んで行っちゃったみたいなね、そういう感じでね。それで決めたの、離婚しようって決めた。そりゃ身を裂かれるような思いだよ、半身を失うってこういうことなんだなって思ったよ。でも幸いまだ子供もいないしさ、あの人が本当に好きな人と幸せになるならそれもいいじゃん。私はもうさ、結婚はこりごりだけど。でもやっぱり子供は欲しいと思うからいつかまた誰かと結婚しちゃうのかもしれないなぁ。やだなぁ、なんで人間って男女つがいにならないと生きていけないようになってるんだろ。本当にいやだなぁ」
 後半涙声になる美幸の声を聞いていたら、それでも努めて明るく言い切る美幸の声を聞いていたら、なぜか私のほうが泣けてきてしまって、その場にしゃがみ込んだ。美幸は、「なんで茉由が泣くのよ」と言ってそれを皮切りにえーんと号泣して、こうして今世界の片隅では二人の女が電話を通して泣き崩れている。彼女を慰める言葉なんて見当たらなくて、だからといって自分を戒める感情すら湧き上がらない。ただ悲しかった。何に悲しんでいるのかもわからないけれど、ただただ、涙が出て来た。
 仕事から帰ってきた夫は、開口一番「どうしたの」と私の顔を見て心配そうに言った。タオルで冷やしてみたりもしたのだけど、美幸と延々号泣していた私の目は完全に腫れて上がってしまっていて、夫がそれにいち早く気付いてくれたことが少しだけ嬉しかった。そう、この人はそういう人だ。美容院で髪を切ったことや服を新調したことや布団を綺麗に干したことやカレーの味付けを変えたことには気付かないけど、それでも私の不調にはすぐに気が付く。そう言う人だ。
「美幸がね、離婚するんだって」
 私は彼女の決意や、旦那の悪行の一部分を話して聞かせた。夫は「それは難しい問題だね」と呟いて実際に難しい顔をして、「でも俺は、何があっても茉由とは別れないかな」と言った。
 嬉しい、という感情が先に来て、その後にぞくっとした。何があっても、離婚しない。それってつまり、何かあるのがバレてるってこと?
 以前、タクシーの中で、美幸が私の浮気を指摘したことを思い出した。「バレてた?」と問えば彼女は「そりゃあね」と返した。月に何度も会うわけじゃない彼女が、私の浮気を悟っていたのだ。私と一緒に暮らしている夫が、毎日私のことを見ている夫が、気付かないなんてどうして思ったんだろう。
 その晩、夫は私に「舐めて」と促してきた。セックスが私からの愛撫で始まるようになったのはいつからだったっけ。私が遊び始めたほうが先だったっけ、後だったっけ。
 その日私は全然濡れなくて、過去一と言っていいほど濡れなくて、夫はそんな私を見て困ったような顔をして、「ねぇ、どうしたら気持ちいいのかそろそろ教えてよ」と言った。彼は自分の気持ちいいにしか興味がなくて、私の気持ちいいには全く興味がなくて、私がどう感じようがどう思おうが関係ないのだと思っていたのに、今さらそんなことを聞いてくるなんてずるい。
 私のも、舐めてほしい。恥ずかしさで消え入りそうな声で呟けば、彼はすぐさまそこに舌を這わせた。くすぐったくて恥ずかしいだけのそれには全くというほど感じなかったけど、それだけ私に優しく触れてくれているんだと思うと心は満たされた。夫のそれが私の中に入ってきた時には、ああ埋まったとは思わなかった。ああ、繋がった、と思った。
 私は彼を愛しているので、今日も「気持ちいい」を繰り返す。本当は大して気持ちよくないのに、なのに心だけは妙に充足感を得ていてそのちぐはぐさに苛立ちが募る。私はどうやって生きて行こう。どうやってこの人と遠くへ行こう。バラを欲しがることをやめて、足元の幸せを拾い上げながら生きて行けば、いつか振り返った時にいい人生だったと言えるのだろうか。
 その日から、私はケンイチさんに会うことをやめた。タンポポの綿毛がぶわぁって飛んで行くみたいに、私の中の欲情もどこかへ飛んで行き、私はまた、小さな芽からやり直す。

〈了〉 

ご一読いただきありがとうございました!

この話を元に構想を始めた『裏垢小説』も良ければ見てって下さいな!



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