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最後の恋を始めよう

「最初はね、顔がタイプだなーっていうのと、話し方がね、なんか落ち着いていていいなって思ったの。私と同じで婚活中だって言うし、付き合うまでいかなくてもね、なんか仲良くできたらいいなぁみたいな、その程度の気持ちだったんだけど、話してみたら、すっごくすっごくいい人で。趣味は読書と映画鑑賞ってインドアなところも私と合うし、O型で長男でね、ほら、私もO型で長女だからね、境遇が似てるっていうか、色々わかってもらえて。仕事はシステムエンジニアなんだって。エンジニアって理系で話しにくいイメージあったんだけど、全然! 婚活疲れしてたからかなぁ、今はその人だけが唯一の癒しっていうか」
 いつもの定食屋でそこまで一気に話し終えたところで、後輩の岸本がため息をついた。
「早見先輩」
「ん?」
「悪いこと言わないんで、やめておいたほうがいいと思います」
「……やっぱり?」
 店員が塩鯖定食でーす、とお盆を運んできて、私は岸本を差し、岸本は軽く手を上げる。岸本の前に置かれたお盆に乗った鯖は脂が乗っていてホクホクしていて、私のさっきの話を中和してくれているみたいだった。
「どうぞどうぞ、先食べてね」
「あ、じゃあ、いただきます」
 味噌汁をすすって、あちっ、となりつつ、岸本は話を続ける。
「っていうか、あのですね。やっぱりって、わかってるならもうチャットするのやめたらいいじゃないですか。話し方が落ち着ているとかチャット上でわかるわけないし、大体、顔がタイプってなんですか、顔がタイプって。ネット上で出会っただけのくせして」
「そりゃあ出会いはネットだけどさぁ。だって、最初にちゃんと写真送ってきてくれたんだよ? ほら」
 私が見せたのは、出会い系アプリのメッセージ画面。『shiho』は私で、『あまの』というアカウントは相手の男性。あまのからは、二十代後半程度の、スーツ姿の自撮り写真が送られてきていて、それに対しshihoは『えー、かっこいいじゃないですかぁ笑』と返信している。
 その画面を睨むように見つめていた岸本は、今日何度目かのため息をついた。
「怪しすぎます。これが本人って証拠は?」
 箸でスマホを差す岸本に、私はムッとしてスマホを引っ込める。
「証拠っていうか、駅前に新しくパンケーキ屋ができたからって、今度そこに行きませんかって話になってるの」
「は?」
「普通、偽物の写真送ってる相手を誘う?」
「いや、え? 会うつもりなんですか?」
「だって、もう好きになっちゃってるし」
 店員が生姜焼き定食でーす、とお盆を運んできて、私の前にお盆を置く。ありがとうございますと軽い会釈をして、手を合わせた。
「いただきまーす」
「危なすぎます。絶対反対です」
「え?」
 岸本の声に顔を上げると同時に、すすっていた味噌汁であちっ、となる。
「だから、俺は反対ですよ、その人と会うの。絶対痛い目見ます。後で後悔しても遅いんですよ」
「でもでも、ここで諦めたらまた婚活地獄だし、パンケーキ食べたいし」
「その人が好きだから会いたいんですか、婚活を辞めたいから会いたいんですか、それともパンケーキが食べたいから会いたいんですか」
「……全部?」
 岸本のため息が、細く長く店内に響いた。店員が伝票でーす、と伝票をテーブルに置いていく。ああ、彼はため息をつきすぎて今日今すぐにでも全身空気になって溶けてしまうんじゃないだろうか。私はそんなことを考えながら、生姜焼きに手を伸ばす。
「あの、早見先輩を見てて、ずっと思ってたことがあるんですけど」
「んー、何?」
「そこまでして恋愛する必要あります?」
 生姜焼きを早めに飲み込んで、私は心外だとばかりに口を開く。
「あのね、何度も言ってるけど、女ってのは結婚にタイムリミットが」
「タイムリミットがあるのはわかりますよ。じゃあ結婚だけしたらいいんです、恋愛して結婚をしようとするからおかしなことになるんですよ」
「岸本、あんた女心をわかってないなぁ。結婚は、最後の恋の先にあるものなんだよ。だから、やっぱり私は諦めたくないの。これが人生で最後の恋になるかもしれないんだよ?」
 箸で指さしたスマホの中に、私の運命の人がいる。そう考えるとやっぱり陳腐で岸本の言うことが正しいような気がしてきちゃうけど、でも私は、逃げたくないし、逃がしたくない。
「最後の恋、ですか……」
 呟きながら味噌汁をすすった岸本は、やっぱりあちっとなっていて、私はそんな彼を見ながら、20代そこらじゃわからないんだろうなぁなんて考えた。

 私がいわゆる出会い系アプリで『あまの』さんと出会ったのは先月で、意気投合すればすぐに会おうという流れになる中、彼はとても慎重でチャットの会話を重視する派だった。何個もアプリを掛け持ちしていた私からすれば返信をマメにしなくちゃいけないタイプはやや面倒くさいジャンルに分類されるのに、どうしてあまのさんにはそう思わなかったのか、これが相性がいいということなのか、よくわからない。
 仕事終わり、帰宅ラッシュで混雑した電車内で、私はつり革にも捕まれず、隣のサラリーマンにぶつかった。軽く睨まれ、すみませんと会釈する。
 そう、こんな毎日からおさらばしたいのだ。私は愛する誰かのために家でホクホクの鯖を焼いて待っているような生活がしたくて、新卒から勤め上げている今の職場に未練なんて全くなくて、言うなれば寿退社をするのが夢。その夢を早々に叶えた先輩たちを、今まで何人見送ってきたことか。
 スマホでアプリを立ち上げると、あまのさんからメッセージが届いていることに気付く。『パンケーキ、今度の土曜日はどうですか?』に対しての正しい返事はなんだろうとしばらく考えてから、『土曜日、大丈夫です! 何時くらいにしますか?』と送ってみた。また電車が揺れて、隣のサラリーマンにぶつかる。サラリーマンが睨んでくる気配がしたけれど、私は顔を上げなかった。上げたくなかった。だからスマホの中の運命の人に、ひたすら文字を打つ。打ち続ける。『待ち合わせは、駅前でいいですよね?』

 指折り数えるとまではいかないけれど、とうとう約束の日がやって来た。土曜日の駅前はやや混雑していて、それが余計に私のそわそわを掻き立てる。「お待たせー」という声がしてハッとすればそれは隣のカップルで、待ち合わせ場所を駅前に指定したことをうっすら後悔しつつあった。ネットで知り合った人と会うのはこれが初めてというわけじゃないけれど、初対面同士が顔を合わせる時の、あの微妙な距離感と空気感に私は未だに慣れない。
「……大丈夫。今日の私はかわいい今日の私はかわいい今日の私は」
 精一杯のおしゃれとお手入れをしてきた自身を見下ろして、私は何度も呟いた。すると、その魔法の呪文を遮るようにして、頭上から声が降ってくる。
「shihoさんですか?」
「……っ、はいっ」
 慌てて満面の笑顔を作り振り返ると、そこに運命の人が立っていた。運命の――
「……あ、あれ?」
 写真で見たのとは程遠い、中年でぽっちゃりの男性の姿。汗ばんだ額に張り付いた前髪は申し訳程度しかなく、とてもじゃないけど、イケてるとは言えない――
「初めまして、あまのと言います。よかったぁ、ちゃんと来てくれたんですね」
 あまのさんは、くたびれたスーツからくたびれたハンカチを取り出し汗を拭く。
「あ……れ? え? あの」
「すみませんね、こんなおじさんだってわかったら会ってもらえないかもと思ったら、つい年齢詐称しちゃって。ついネットで拾った写真を送っちゃって」
「あー、ははは……つい、ですよね。ありますよねー」
 どうしよう、どうしよう。頭の中で警告音が鳴り響いて、私は思わず後ずさった。完璧な作り笑顔を浮かべなくちゃいけないのに、口角がひきつりどうしようもない。私の運命が、運命の人が、崩れていく。
「ははは……そういえば今日、なんか大事な予定があった気がするぞぉー?」
「え?」
「ご、ごめんなさいっ!」
 頭を下げると同時に走り去ろうと踵を返した。その手を、あまのさんが掴む。
「いやいや、もしかしてshihoさんも僕を外見で判断してます? 今までメッセージのやり取りしてたじゃないですか、あんなに楽しいって言ってたじゃないですか、結局見た目で決めるんですか」
「いいいえあの、っていうか、見た目がどうこうというより嘘をつかれていたことが問題でして」
「それなら謝るから」
「無理無理無理無理」
 力づくで手を払うと、あまのさんが一瞬よろけた。申し訳ないな、という思いがないことはなかったけれど、どう見たってこの状況じゃ被害者は私だ。
 ちょっとでも可愛く見えるように、と履いてきたパンプスは走りづらくて、私は何をしてるんだろうと情けなくなる。そうだ、岸本だって言っていた。あの写真が本人である証拠なんてないって、言っていたのに。
「ちょっとぉ、shihoさん、それはずるいでしょー」
 人混みを掻き分けながら走る私の後ろを、あまのさんが追いかけてくる。見かけによらず足が速い。これじゃあすぐに追いつかれてしまうし、なんだか私、人通りの少ない場所に来てしまってないか? これはまずい、非常にまずい。絶対に、捕まりたくない。
 人気のない路地裏に入ったところで、ゴミ箱にぶつかって盛大に転んだ。膝を擦り剥き、血が滲む。痛みと情けなさで立ち上がれない。あまのさんの、shihoさーん、という声が迫ってくる。
「俺は反対ですよ、その人と会うの。絶対痛い目見ます。後で後悔しても遅いんですよ」
 岸本の声がフラッシュバックした。その瞬間、涙が出た。
「き、岸本に、それ見たことかって笑われる……」
「別に笑いませんよ」
 唐突な声と共に、唐突に腕を引かれた。
「shihoさん、みーっけ!」
 あまのさんの声がする。楽し気なその声は、次の瞬間、困惑の色を帯びた。
「あれ? どこ行っちゃったの? shihoさーん?」
 きょろきょろと辺りを見渡しながら、あまのさんは走り去っていって――
 そして、誰もいなくなった路地裏で、その人はガチャ、と店の通用口の扉を開けた。
「……き、岸本……?」
「はい、岸本です」
 私を抱きかかえ、咄嗟に店内に隠れてくれた岸本は、外に出るなり私の膝を覗き込んだ。
「あー、血が出てますね。これ早く洗ったほうがいいですよ、歩けます?」
「なんで……」
「はい?」
「なんで岸本がここにいるの?」
「なんでって、土曜日どうですかって、チャット来てたでしょう」
「……張ってたの?」
「駅前のパンケーキ屋に行くなら、駅前で待ち合わせだろうと予想したら、ビンゴです。俺、冴えてません?」
 急に体中の力が抜けて、私はナメクジにでもなった気分で、へなへなと地面に座り込んだ。
「ええっ、そんなに足痛かったですか?」
「……怖かった」
 私の前にしゃがみこんだ岸本が、息を飲む。ボロボロと、涙が止まらない。
「怖かったよー! 岸本ー!」
 泣いているのが恥ずかしくて、顔を隠したくて岸本に抱き着いた。私はバカだ、大バカだ。でも純粋に恋をしたいって、素敵な恋愛がしたいって、そう思う女子が全員バカなら、私はもうバカのままでいい。
「しかもパンケーキ食べ損ねたー!」
「えっ、そこ!?」
「もう会ったことない人に恋なんてしませんー! 嘘、するけど、ちゃんと見極めます、今回は調子に乗りました、ごめんなさいー!」
「はいはい、ちゃんと反省してください。次回は俺の忠告を無視しないこと」
 一瞬だけ岸本の手が私の背中を抱きしめてくれた気がしたけど、その温もりはすぐに離れていって、寂しいような、苦しいような気持ちになる。
「恋をするのは、大変かもしれませんけど。でも、焦らずゆっくり、やればいいじゃないですか。先輩、いいところいっぱいあるんですから」
 岸本の声は、優しかった。いつも仕事のミスを私にカバーしてもらってばかりの後輩野郎のくせして、そんな男の人みたいな声出すなんて、ずるい。卑怯だ。

「で、結局こうなるんですね」
 定食屋で向かい合って座りながら、岸本は小さく苦笑いした。
「パンケーキも食べたかったんだけど、やっぱり私にはこれが性に合ってるかなって」
「どれだけパンケーキ好きなんですか」
「今度一緒に行こうよ、パンケーキ」
 岸本は、一瞬だけ言葉に詰まった。店員が塩鯖定食でーす、とお盆を運んできて、私が岸本を差し、岸本は軽く手を上げる。
「どうぞどうぞ、先食べてね」
「はい、いただきます」
 味噌汁をすすって、あちっとなる岸本は、いつもと同じで妙にほっとする。
「今日は本当にありがとね。なんか、ヒーローみたいでかっこよかった、岸本」
「そうですか。光栄です」
「そういえば岸本も、O型だったよね」
 そう問えば、彼は鯖をもぐもぐしながら頷いた。
「あー、そうですね」
「長男?」
「いえ、残念ながら末っ子です」
「……残念なんだ」
「……残念ですね」
 店員が生姜焼き定食でーす、とお盆を運んできて、私の前にお盆を置く。ありがとうございますと軽い会釈をして、手を合わせた。
「いただきまーす」
 味噌汁をすすって、あちっとなる。と同時に、近所の薬局で消毒液と救急パッドを買って手当てしてもらった膝が、思い出したようにじくじくと痛みを伝えてきて、私は今日の一日が現実のことなんだと理解した。私がチャットで出会った人から逃げ惑って派手に転んだことも、それを岸本が助けてくれたことも、今こうして岸本と味噌汁をすすってることも、全部。
 生姜焼きを早めに飲み込みながら「次はどのアプリ試そうかな」なんてぼやく。岸本の「俺にしとけばいいじゃないですか」の言葉が嬉しくて、聞こえなかった振りをした。


【了】

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