クリープハイプが聞こえない Vol.2『栞』
ソータとの出会いは、カフェだった。注文したコーヒーを取り違えてしまったのは私にも関わらず、「すいません、そっちが僕のかも」と丁寧に声をかけてきてくれたのが印象的だった。すいません、すいません、を繰り返すものだから、私のほうが謝りそびれてしまって、居心地が悪いまま席を探しに行った。結局、座席はカウンターの隣合った二席しか空いていなくて、居心地が悪い中、彼と隣り合わせで座った。
カウンターから見下ろす桜並木は、まだ五分咲にも関わらずたくさんのカップルで賑わっていて、本当ならあの中に、私もいたのになぁなんて考える。時間にルーズな当時の彼氏を待つ間、本でも読んで時間を潰すことにした。読みかけの文庫本を開いた途端、「あっ」という声が隣から聞こえて、
「すいません、大声出しちゃって。驚かせてすいません。でも、」
彼は、鞄の中から文庫本を出すと、丁寧にかけられたブックカバーを外して見せた。私が今読んでいる本と、同じだった。
通りすがりのままにしておいたほうが、よかったのかもしれないと今でも思う。でも私は当時、彼氏と上手くいっていなくて、マンネリした関係に終止符を打たなければいけないとずっと思っていて、そして、その日結局、彼氏は現れなかった。約束から二時間近く遅れてようやく、「ごめん寝てた」というLINEが来ただけだった。
読みかけの文庫本を閉じて、もうすっかりぬるくなったコーヒーを飲み干す。席を立った瞬間、声をかけられた。声の主は、ソータだった。
「予定がなくなったなら、僕と飲みに行きません?」
なんでわかるんだろう。その時私は、彼はテレパシーか何かを使えるのではないかとすら思った。のちのち聞いてみれば、「時々スマホを見て、あんなにわかりやすく表情を変えてたら誰でもわかるって」とのことらしい。あと、彼はこうも言っていたっけ。
「本、開いたまま、全然ページが進んでなかったよ」
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「ソータ、朝だよ。起きて」
朝が弱い彼を何度もゆすって起こすのは、これで何度目だろう。春の空気が、出会ってもう1年が経とうとしていることを伝えてくるのに、私たちは何も変わらない。
「んー……はよ」
寝ぼけながら、ソータが私の頭に手を回す。キスをして、再びこてんと頭を枕につけてしまう。
「もう!本当に遅刻しても知らないからね!」
「んー、リサたんリサたん、ごめん怒らないで。起こしてぇ」
「重たいから嫌だ」
両手を宙に向けながら、ソータが物欲しそうな顔でこっちを見てくる。仕方なく腕を引っ張って起こしてあげると、そのまま押し倒された。
これ以上は本当に時間がない、と抗議しようとするのに「リサ」と一言名前を呼ばれ、何も言えなくなってしまう。「シーッ」と唇に人差し指を当てたと思ったら、ソータの手が服の中をまさぐりだす。
「窓、開いてるからね」と言われた気がするけど、私がそう思っただけだったかもしれない。やばい、このままじゃ、快楽に飲まれて何もかもどうでもよくなってしまう。首筋を吸われて、「やだ、見えるところは……っ」と言いかけたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「……来たの?もう?」
ソータがつまらなそうに起き上がる。
「うん、来たみたい」
「……俺、シャワー浴びてくるわ」
彼がバスルームに入ったのを見届けて、玄関を開ける。
「お待たせしましたー!お荷物は全てまとまっていますか?」
猫のマークの、引っ越し業者のお兄さん。衣服や髪が乱れていないかさりげなく手で直しながら、私はよそ行きの笑顔を浮かべた。
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きっかけは、本、だったと思う。「これは俺らのキューピッドだから」とソータがあの日読んでいた文庫本を持ってきて、全く同じ二冊を棚の上に置いた。その本を読まないまま、時間だけが過ぎた。セックスをしていたら、時間だけが過ぎた。もう内容もほとんど忘れてしまったそれを久しぶりに手に取った時、本の表紙に、薄く埃が積もっていることに気付いた。
「もう、会わないほうがいい気がする」そう伝えた時、ソータは本当に心の底から不思議そうな顔をした。
「なんで?別にリサがそうしたいなら全然いいけど、俺ら別に不都合なくなかった?」
「うん、なかった。全然なかった。でも、ずっと都合よくはいられないでしょ?」
ソータがつけて帰ってきた、真新しいキスマークに触れてみる。ソータは私に痕を残すのが好きだと思っていたけれど、それはもしかしたら、彼の相手の性癖だったのかもしれない。
「……ちゃんと付き合おう、ってこと?」
ソータの言葉に首を振る。そうじゃない、そんな傲慢なことは望んでない。ただちょっと、嫌だなと思ってしまった。ソータは他にもたくさんセフレがいて、今日は私の家に来たけど明日は別のところに行って、別の女性を抱いて、そういうのが、ちょっと嫌だなって思ってしまった。
棚の上の文庫本が目に入る。もうずっと読まれていない、ずっとそこにあるだけの文庫本。私たちの関係は、そこから1ページも進まない栞のようで、私はずっとその栞を進めたかったのだと気付いた。
「埃が溜まると思う。あの本みたいに、ずっとそこに置いてあるだけで、埃が溜まっていく」
だったらいっそないほうがいい、という言葉は、微動だにしない彼の横顔があまりに綺麗で声にならなかった。
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引っ越し業者は仕事が早い。シャワーを浴び終えたソータが、スーツに着替えて出勤する頃には、もうほとんどの荷物を運び出し終えていた。私の家に泊まる時のために、と買った上下で2980円のスウェットは床に放られたままで、どうするの?と目で訴えれば「捨てといて」と笑われた。
「これは?持って帰ったら?」
ソータが置いていった、お揃いの文庫本のうち一冊を手渡す。彼がこの本をどこまで読んだのかは知らないし、これから読むのかどうかもわからない。だけどこれだけは、ちゃんと持って帰ってもらったほうがいい気がした。
「……ん、ありがと」
ソータは文庫本を受け取ると、会社に向かった。新しい引っ越し先はどこかとか、そうじゃなければ今までありがとうとか、そういう言葉があるものだと思っていたけど何もなかった。開けっ放しの玄関から風が吹き込んで、どこからか、桜の花びらを運んでくる。
手にしたもう一冊の文庫本をぱらぱらとめくってみる。挟まれた栞はちょうど真ん中くらい。これを読み終える頃には、きっと、春が終わって夏が来る。
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ひらひら舞う文字が綺麗
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クリープハイプが聞こえない Vol.2 栞
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