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ケプラーの校則 第5話(ケプラーの校則)最終話

#創作大賞2024
#恋愛小説部門

 僕は部室に戻り、ケプラーの校則が書いてある、埃まみれの額を壁から外した。
 そして、その額を裏面にして机の上に置いた。
 留め具を一つ一つ外して行き、後ろの板を取ると中から白い紙が現れた。それは麻里子さんが言うとおり2枚重ねてあった。
 表面はいつも見ている演劇部用の標語だったが、2枚目の紙にはこう書いてあった。

 ケプラー(キムラ)の校則
き・既成概念に囚われず、その現象を素直に受け取る事
む・無理と思ったところが限界。無理と思わなければどこまでも進むことが出来る
ら・楽をする事に逃げるな。何事も真摯に向かえ
       ケプラー先生こと 木村圭治

 それはケプラーではなく、木村先生の名字にちなみ“き・む・ら”の文字から始まる言葉だった。
 これらの言葉は木村先生自身の信条を標語にしたものだろうが、麻里子さんのケプラーの校則も確かに“け・ぷ・ら”から始まっていた。それを模倣したと言うことはすぐにわかった。
 そして木村先生の標語には、確かに“既成概念に囚われず”という言葉があり、言われればあのケプラーの3法則から発想を得たかもしれない。そしてこの標語について木村先生は、まだ学生だった麻里子さんと一緒にいろいろ語っていたに違いない。
 それは麻里子さんが一番楽しい頃の木村先生との思い出の時間だったのだろう。そしてあの標語の事を語り合うときが、二人の幸せな時間だったかも知れない。
 木村先生が、大人の言う“不祥事”で学校から追放されれば当然あの標語も廃棄される。だから麻里子さんはこの標語を“ケプラーの校則”として守りたかったのではないだろうか。自分の作った標語にカモフラージュして、もう一つの想い出の場所の演劇部の部室に飾ったに違いない。
 “キムラの校則”を“ケプラーの校則”として、麻里子さんはそれを残したかったに違いなかった。

 僕は、それから更に文化祭の発表の準備にのめり込むようになった。
 麻里子さんや松下先生にも手伝ってもらった。ケプラーの法則の解説などはほとんど麻里子さんにやってもらい、僕はそれをパネルにしただけだった。
 その写真の貼ったパネルや解説文。土星や木星のスケッチパネル、部分月蝕やペルセデウス座流星群の観測結果やケプラーの法則を説明した表などは文化祭期間中、理科室で展示されることになった。
 その甲斐があって、文化祭での展示発表会は大人気に終わった。
 文化祭の数日後、我が天文同好会には女子が三人、男子が二人の入部希望者が来てくれた。
 おかげで来年度からは予算もついて、晴れて『天文部』として活動することになった。
 もちろん顧問は松下先生にお世話を頂くことになった。
 そして、僕は部長という大役を任されてしまった。成り行きとしては当たり前のなかもしれないが、たった六人でも、この組織のリーダーシップをとる自信はなかった。しかし、今まで明日香さんと一緒にやってきた日々の事を思うと、この天文部を益々成長させたく、その気持ちが僕を奮い立たせてくれた。
 みんなは僕を『初代部長』と言ってくれたが、僕はあえて二代目部長と名乗った。何と言ってもこの部を創設したのは明日香さんなのだから。
 そして、この部として第一歩を踏み出したことを誰よりも伝えたかった人は、明日香さんだった。

 やがて街でクリスマスソングが流れ始める頃、麻里子さんは明日香さんの新しいメッセージアプリのIDを僕に教えてくれた。 
 明日香さんはこの学校を去る時、スマホ本体はもちろん電話番号なども全部変更していたので、僕は連絡をとる事ができないでいた。
 そして彼女は、今でも僕に嘘をついてアメリカに行ったことを気にしているようで、なかなか彼女から連絡し辛らかったらしい。
 それを見かねた麻里子さんは、僕から明日香さんに連絡するようにと、連絡先をこっそりと教えてくれた。
 そんな事を気にしているとは明日香さんらしくないと思ったが、やはり彼女は普通の内気な女の子だったのだ。僕は躊躇とまどったが、思い切って彼女にメッセージを送ることにした。
 しかし、いざ連絡をしようと思うと、今までの色んな事が走馬灯のように思い出され、一体何から話せば良いのかと、指が止まってしまった。なので、メッセージを打つまでにはしばらくの時間が必要だった。
 それでも、文化祭の成果発表が大盛況だった事や、それによって彼女と二人で創った天文同好会は、天文部に昇格することをどうしても知らせたかった。 
 ー 久しぶりです。俊太です。手術成功だったそうですね。おめでとうー
 ー 術後の経過はどうですか? ー
 ー 成果発表会は大盛況で天文同好会は天文部に昇格する事になりましたー
 僕は、短い文章を立て続けに三つ送った。
 しかし1時間待っても2時間待っても返事はないのはもちろん、既読にもならなかった。彼女はやはり僕のことなどは、気にも留めていなかったのではないかと不安になった。
 その時、ふと時計を見た。今の時間は午後5時だった。よく考えて見たら、彼女のいるアメリカ東部とは時差が13時間ある。あちらでは今はまだ明け方の6時だ。僕はあちらの時間で午前4時頃に彼女にメッセージを送り、その返事を待っていたのだ。この時間に当然返事をくれるわけがない。僕は間抜けな自分を自戒しつつ気長に待つことにした。
 そう思ってしばらく経ったとき、着信音がした。
 その音を聞いた僕は、胸の鼓動が早まった。そして、すぐにスマホを開いて、アプリからメッセージを見た。 
 ー おはやう。そっちは夕方かな?目が覚めたら俊太からメッセージがあったからびっけりした。夢らと思った ー
 彼女もまだ寝ぼけているのか、それとも急いで打ったからなのか、入力ミスが多かった。しかし、彼女が急いでメッセージを打っている姿を想像すると、やけに嬉しかった。
 ー まだ寝ぼけているよね。時間がわからなかったからごめん。また連絡するね ー
 と送ったらすぐに返信があった。
ー 全然大丈夫。術後の経過は概ね良好よ。わたしの事より天文部に昇格おめでとう ー
 僕もまた彼女からのメッセージにすぐ返信した。成果発表会の盛況ぶりや、部員が5人も入ったことなどを言った。
 彼女からは入院している病院の事や、ドクターの事。あるいは毎日お世話になっている看護師さんや、向こうに来ていたお母さんや麻里子さんの事などを教えてくれた。
 そんな会話をいつまでもそれを繰り返していた。そして突然。
 ー 俊太。嘘ついちゃってごめんね ー
 と彼女がメッセージをくれた。
 ー そんな事は全然気にしていないから。早く良くなって、また会いたいー
 と僕は本当に思っていることを伝えた。
 やがて、彼女からは数日おきに連絡が来るようになり、その年が暮れるまで、僕たちは何回か連絡を取り合った。
 年が明けると、僕たちはリモートで話す事にした。
 時差があるので、彼女の体調に合わせ、向こうは昼間で僕は夜の時間で話すことになった。
 初めてリモートで話しをする日は、何となく朝から緊張していた。
 やがて、夜になり僕は部屋の中で一人、パソコンの画面を開いた。
 画面に映し出された彼女の顔は、相変わらず透き通るような肌の白さで、髪は相変わらずのショートカットが眩しく見えた。そして、若干緊張しているようにも見えた。
「明日香さん。久しぶりですね」
 僕がそう言うと、一呼吸置いたような間で、明日香さんの声がスピーカー越しに聞こえてきた。
「リモートだけど久しぶりに会うね。俊太は変わらないよね」
「明日香さんだって相変わらず・・・・・・」
「相変わらず何?相変わらず威張ってるって言いたいの?」
 明日香さんは悪戯っぽく言った。昔と変わらない明日香さん表情を見ると、僕は安心した。
「その方が明日香さんらしいですよ」
「どういう意味なの」
 そう言うと彼女はますます、悪戯っぽい表情をした。
 しばらくは改めてお互いの近況報告したり、天文部の今の活動や状況を話した。
「すごいね。俊太は」
「そんな事ないですよ。そもそも明日香さんが創設者だし。明日香さんがいなかったら、僕なんか今頃何をしていたんだか・・・・・・」
 そう言うと明日香さんは
「ありがとう。そんな風に思ってくれて」
 小さい声だが本当に感謝するように彼女は言った。
「あの時は、いろいろ嘘をついちゃってごめんなさい」
 その事については、今までメールアプリでも何回か謝ってくれていたが、僕と面と向かうと彼女は改めて謝罪した。
「何回も謝らなくてもいいし、第一そんな事はもうどうでもいいです。あの時は仕方なかったと思います」
 僕は神妙な顔をしている彼女をなだめるように言った。そして、
「それより、もう僕に隠していることなんかないですよね」
 当然、もう隠し事などあるはずはない。
 僕は明るい声で、冗談を交えながら言ったつもりだった。すると明日香さんはしばらく間を置き、真剣な表情になった。
「実はまだ言っていないことがあるの」
「え・・・・・・?」
 彼女にはまだ謎があるのだろうか?一瞬、色んな事が頭をよぎり不安な気持ちになった。
 画面越しに彼女の顔を見ると、その表情は真剣な表情から迷っているようにへと変わっていった。その事を僕に言うべきか、言うべきではないかと。
 やがて彼女は重い口を開いた。
「まだ言っていないことがと言うより、まだ誰にも話しをしたことがないことがあるの」
 そういうと彼女は続けて、
「でも、俊太だけに言うわ。周りは誰もいないよね」
 彼女は僕に周りを確認するようにと言った。
 もちろんここは自分の部屋なので、他に誰もいるはずはないのだが、一応周りを見渡し僕は頷いた。
「俊太。驚かないでね」
 彼女はそう言うと一瞬間を置いた。僕はどんなことでも受け止めようと覚悟した。
「実は・・・・・・。わたしの実の母親は、麻里子さんなの」
 彼女の口ぶりから相当な決意でそれを口にしたことが感じられた。そして僕はそのことよりも、その事実を既に明日香さんが知っていると言うことに驚いた。
「両親からも麻里子さんからもそう言われたことはないわ。だからこの事をわたしが知っているとは思ってはいないはず。でも、わたしは実の母親が麻里子さんだって言うことを中学生の頃には知っていたの」
 僕は別の意味で驚いた。昨年の年末、麻里子さんから明日香さんは実の娘だと言われた時は驚きショックだった。また麻里子さんもその事はいつか明日香さんに言わないといけない・・・・・・でも、どのタイミングでどうやってと悩んでいた。しかし、その事実を明日香さんはすでに知っていたのだ。
「俊太、驚いた?この事は麻里子さんや松下先生には絶対に言わないでね」
 僕は驚いた表情をしていたと思う。しかしそれは麻里子さんの娘が明日香さんと言うことに驚いていたわけではなく、明日香さんがそれをずいぶん前に知っていたことを驚いた。
 しかし明日香さんは、麻里子さんの娘と言う事実に驚いたのだろうと思っていたに違いない。だから彼女は、伝えた事の重さを感じていたようだった。
「中学生のいつ頃知っていたの?」
「いつ頃かわからないけど、わたしは母親よりも、叔母の麻里子さんにはよく似ているなって昔から思っていたの。たまに麻里子さんと一緒に歩いていると、人から『ご姉妹ですか?』とよく言われた事もあったわ。でも、その時、麻里子さんは強調するように『姉の娘ですの』と言っていた。そしてその後は決してわたしと目を合わさなかったの。その時はきっと麻里子さんはわたしと姉妹と言われるとが嫌なんだと何となく思っていたわ」
 お互い、既に母娘だと知っているのに、当事者同士はそれぞれがその事を知らないと思っている。それをどうやって気付かせればいいのだろうと考えていた。
「ねぇ、俊太。聞いてる?」
 僕はその事を考えていて、画面を見ていなかった。
「俊太、呆然としてたよ。大丈夫?ショックを受けた?」
 明日香さんが僕を気遣ってくれた。
「いや、全然大丈夫だよ」
 もちろん大丈夫だ。その事は既に2ヶ月ぐらい前には知っていたから。問題はこれからどうお互いに伝えていくかだ。すると明日香さんは話しを続けた。
「ある晩。麻里子さんに望遠鏡で月を見せて貰ったの。いつだったか俊太にも言ったかもしれないけど。その時、望遠鏡を覗くわたしに麻里子さんの顔が近づき、手が触れたとき、どういうわけか『この人がきっとわたしの母親に違いない』って確信したの」
「それで、母娘だと・・・・・・」
「いや、でも、それはもしかしたらわたしの単なる勘違いかもしれない。それでも、どうしても確認したくなって、高校に入る前に、親には黙って区役所に行って戸籍謄本を取って調べたの。でも、やはり勘違いではなかったわ。そこにはちゃんと『養子』と書いてあって。つまり産みの母親は別にいる、と言うことがわかったの。それは紛れもなく麻里子さんと言うことは直感でわかったわ」
 いくら前々からそれを感じていても、その時はショックに違いないと思った。
「やっぱりショックだったよね・・・・・・」
 彼女は少し考えたようだったが
「昔から薄々わかっていた事だし、中学生の時はそれが確信に変わっていたから、その事は思ったほどショックを受けなかったけど、この事をいつ言われるんだろうかな?って。その方が怖かったわ。経験したことはないけど、それはまるで何かの裁判で、判決を待っているような感じとでも言うのかな?それと、もし母や麻里子さんがわたしにそれを告げたら、今の関係はどうなるだろうと言う不安な気持ちもあったわ。だから一生その事は言わないで欲しいという気持ちもあったの。とりあえずは、お互い知っているけど、わたしは知らないふりをするのが一番いいと思って今日まできたの」
 彼女の複雑な胸の内を聞いているうちに『麻里子さんもその事実をどう話したらいいのかを悩んでいるんだ』と喉元まで出そうになった。
 しかし、これは僕が言うべき事ではないと思いとどまった。
「わたしを麻里子さんの躰に宿したときは、まだ高校二年生ぐらいでしょ。父親が誰だろうかと思ったこともあったけど、それはたぶんわたしの知らない人だろうから、考えても仕方ないと思ったわ。そしてその時の年齢は今のわたしと一緒よ。確かに育てられないと思うわね。周りだってそう思っちゃうよ。たまたま、わたしの母が麻里子さんと年が離れてて、旦那さんとの間に子供がいなかったらから、わたしを育ててくれる事になったんだと思う。でも考え方を変えてみると、わたしには産みの母と育ての母がいるのよ。なかなかいないよ、こんな幸せな娘って。俊太もそう思うでしょ」
 彼女は明るい声でそう言った。
 果たしてそれが本心なのかどうかわからない。本当はそんな綺麗事ではないと思うが、それでも彼女は今そう思うようにしていることは確かなようだ。過去はどうあらがっても変わるものではない。そうであるならば、前向きに考えたがいい。事実、彼女の二人の母はとても優しいのだから。
 そして今は、その知らないお父さんのおかげで生き延びられているその事実も伝えたい気持ちにも駆られた。
「うん、そうだね。明日香さんは幸せ者だよ。だから早く良くなって、この天文部で一緒に星を見ようよ」
「うん、わかった。できるだけ早く俊太の所に帰るね」
 彼女は約束してくれた。
 リモートが終了すると、僕はさっきまで彼女の顔が映っていた画面の、口元が映っていたあたりを触った。もちろんそれで彼女の温かさや触れた肌の柔らかさが感じられる訳ではないのだが、僕はあの夏のロッジでの彼女から感じた温かさをもう一度確かめたかった。
 しかし、事態はそう順調には進まなかった。彼女の身体はその移植手術ための感染症などの合併症も発症したりした。しばらく、いや数年はあちらの病院かまたはその近くで暮らすことになるかもしれないと言うことだった。 彼女の症状は麻里子さんや、麻里子さんを通して松下先生から、あるいは彼女のメッセージから逐次聞いていた。僕は、明日香さんの症状に一喜一憂しながらも、毎日を過ごした。

 立春が過ぎたある日、麻里子さんが再び明日香さんの所に行くという連絡が来た。僕はそれを聞き、あのことを麻里子さんに伝えなければと思い、再び麻里子さんがいる工場に行った。
 そして、僕は手に薄いカバンを一つ持っていた。
 明日香さんは後遺症の症状が出始めたため、彼女のお母さんが付き添っていたが、急遽日本に帰らなければならないことになり、その為交代で麻里子さんが行くと言うことだった。
「明日香さん大丈夫ですか?」
「たぶん、大丈夫よ。今は症状が落ち着いているしね。それに本当は付添いなんていらないのよ。ただ、あの子が心細くなると思って行くだけだから。それより今日はどうしたの?何か明日香に伝えておくことでもあるの」
 彼女とはメッセージアプリで連絡を取っているし、あれからリモートでも2回ほど話しをしていた。
「明日香さんに伝えることは特にありませんが、向こうに行く前に麻里子さんにお話したいことがあります」
 僕は、明日香さんが既に麻里子さんの娘と言うことを知っていると伝えたかった。
「何かしら。お話って?」
 麻里子さんは、前回通された事務所内の応接室に僕を案内してくれた。
 部屋に入ると
「コーヒーでも飲む?」
 と麻里子さんはそう言ってくれたが、
「いえ、麻里子さんも忙しいでしょうからこのままで構いません」
 僕の少し改まった雰囲気に、麻里子さんは気づいたようだった。
 そして一呼吸して、僕は口を開いた。
「実は、明日香さんからは黙っておいてねと言われたのですが・・・・・・彼女は既にもう知っています」
 僕がそれだけいうと、麻里子さん一瞬『何のこと?』と言いたげな顔をしたが、すぐに全てを察したようだった。
 そして麻里子さんは、
「明日香が俊太君にそう言ったの?」
 麻里子さんは訊いた。
 僕は頷いた。
 麻里子さんとしては、いつかこうなる日が来るのだとわかっていたのだろう。大きな動揺はなかったみたいだが、
「やっぱりそうね。そうよね」
 と、麻里子さんは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
 麻里子さんはややうつむき加減だったが、少しずつ僕の方を見て
「明日香はそれをどんな感じで俊太君に話していたのかしら?」
 その声は少し震えているように感じた。
 僕はあの時の明日香さんの表情や雰囲気を素直に話した。
「明日香さんは中学生の頃から、薄々気がついていたようです。それが彼女自身が戸籍謄本などを取り寄せるなどをしてそれが確証に代わったようです。でも彼女も麻里子さんと同じように、その事実を麻里子さんやお母さんから聞くのが怖いと言っていました。なぜならば、麻里子さんが言ったように彼女もまた今の関係が壊れるのを恐れていたからです。だからそれを知らないふりをしているんです。でも、今のままじゃいけないと僕は思います。これから一生・・・・・・明日香さんのこれからの人生の中で、お互いが実の母子だと知っているのに、知らないふりを続けて行く事は出来るはずがないです。必ずいつか言わないといけないときが来る。そう思って今日、麻里子さんにそれを伝えに来ました」
 明日香さんが、麻里子さんが実の母だと僕に言ってくれた日から、その事をずっと考えていた。麻里子さんにも明日香さんは知っていると言うことは伝えなければならない。
 そう思っていた。
「ありがとう。そうね、確かに俊太君の言うとおりだわ。お互いが周知の事実なら隠すことなんかないものね。でも・・・・・・」
 麻里子さんは、まだ迷っているようだった。
 たぶん今の関係が壊れるのを恐れているのに違いない。麻里子さんは自分は明日香さんの叔母と言いながら、実の娘として見ているはずだ。叔母という隠れ蓑を纏って、実の娘といつまでも一緒にいたいと思っているのだろう。もし麻里子さんが明日香さんに真実を言ったならば、その隠れ蓑を脱ぎ、娘を捨てた母親として明日香さんの前に現れなければならない。しかし、真実を言わなければ、明日香さんも麻里子さんもこれからの人生が前に進まないような気がした。
 産みの母と育ての母が近いところにいる。確かに普通の生活をしてきた僕からみたら、奇妙な人間関係だし、それよりもできる限り普通の母娘、普通の叔母であった方が、何事もない関係でいられる。でも事実はそうじゃないんだから、それは認めないといけないんじゃないかと思う。高校生の僕はまだ、社会的にも幼い考えしか持っていないかもしれないし、綺麗ごとしか考えられない。大人の深い事情などわからない。それでも麻里子さんには決断して欲しかった。
「僕は、まだ麻里子さんに比べたら人生経験が全然少ないですけど、もしかしたら麻里子さんは、明日香さんの叔母を演じていることで逃げているんじゃないですか?」
「逃げている・・・・・・?」
「そうです。明日香さんの本当の母親だという事実から」
 すると麻里子さんは少し肩が落ちたような感じだった。
「そうかもしれないわね。でも、今の私には無理かも・・・・・・」
「ごめんなさい。生意気なこと言って」
 少し沈んだ麻里子さんを見て、僕は酷いことを言ったかもしれないと思った。でも続けて
「でも、それは校則違反です」
「校則違反?」
「そうです。ケプラーの校則違反です」
 僕はそう言うと持ってきたカバンの中から一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。
「これは・・・・・・」
「そうです。部室に飾ってあった、ケプラーの校則です」
 麻里子さんは、その僕が机に置いた紙を手に取り懐かしそうに見た。そしてその言葉を一字一句読んでいた。
『き・既成概念に囚われず、その現象を素直に受け取る事
む・無理と思ったところが限界。無理と思わなければどこまでも進むことが出来る
ら・楽をする事に逃げるな。何事も真摯に向かえ』
「全て当てはまりますよね。その現象・・・・・・つまり『今の状況を素直に受け取る』こと。そして『無理と思わなければどこまでも進むことができる』。最後に『何事も真摯に向かえ』です」
 麻里子さんはそれを見たまま無言になり、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。
 そして最初に言葉を発したのは僕だった。
「すいません。責めているわけではないんです。それに明日香さんだって麻里子さんが自分を捨てただなんて思っていません。彼女だって、もしあの年で子供を産んだら、自分だって同じ事をすると言っていました。もしそのことで、自分に対して呵責を感じているのなら、それは間違いだと思います。むしろ明日香さんの叔母を演じ続けることが、麻里子さんの人生の足かせになっているんじゃないかと思うんです。その時思ったんです。今の状態は、ケプラーの校則違反ではないのかと」
 すると麻里子さんは少し微笑みながら、
「俊太君の言う通りだわ。あれほど彼にこの言葉を教わったのに」
 麻里子さんはもう一度その紙を見て言った。そして、再び顔を上げると
「でも、ありがとう。ここに書いてあるとおりだと思う。わたしは色んなことから逃げていたみたい。でもそんな事をずいぶん年下の男の人から言われるなんて、わたしもまだまだ自分に甘えがあるんだと改めて思ったわ」
 麻里子さんがずいぶん反省しているような事を言うので、僕ははっと我に返り、
「いえ、すいません。僕の方こそ麻里子さんにこんな事を言えるような人間ではありません。いろいろ出過ぎたことを言って本当にごめんなさい。でも、これは僕が言っているのではありません。ケプラー先生が言っているんです」
 そういうと麻里子さんは「フフッ」と少し笑い
「そうね、確かに。彼が、いずれ生まれてくる子供のために書いたのかもしれない。実際は違うと思うけど、そう思うようにするわ。そうでないとわたし・・・・・・明日香に打ち明けられないから。ありがとう」
「い、いえ。僕なんか何もしていないですし・・・・・・なんか偉そうに言って本当にごめんなさい」
 僕は再度、麻里子さんに謝ると彼女は黙って首を振った。
 そして
「ううん。本当にありがとう、感謝しているわ。俊太君には色々心配掛けたわね。明日香だけじゃなくてわたしも俊太君に助けられたかも」
 僕はそれを聞き少し安心した。
 そして僕の思っていた事を麻里子さんに言った。
「麻里子さんの人生は未だに明日香さんに囚われているんじゃないかと思っていたんです。もう、全てを解放して自分だけの人生を歩まれていいんじゃないかと思います。まだまだ何も知らない僕がこんな事を言うのは失礼だと重々承知しています。ただ、僕は・・・・・・麻里子さんの事も好きなので、自分の幸せも大切にして欲しいんです」
 自分が麻里子さんに対してこんな事を言ってしまうなんて信じられなかった。もしかしたらこういうことを言うことによって、もう麻里子さんから嫌われるかもしれないとも思った。でも、それは今目の前にいる麻里子さんの穏やかな表情を見れば、そんな不安はなかった。
 そして数日後、麻里子さんは明日香さんの元へと向かった。


 数年後、僕はアメリカの大学の研究室にいた。まだ助手なので天文学者と呼べるのかどうかわからないが、僕はそれを目指している。しかしそうは言っても天体観測をする事はない。僕の専門は天体力学なので、ひたすらパソコンと数値計算の繰り返しだ。天文学者の現実としてはそれが当たり前のようだ。星々を観測したいならアマチュア天文家になればいい。
 でも、これが僕の性にあっている。ケプラーがチコプラーエの観測結果を基に、法則を導いたように。
 そしてここには優秀な同僚もいる。いや同僚というべきだろうか?ここでは優秀な同僚ではあるが・・・・・・。
「ねえ、俊太。このデータ確認してくれない?」
「またかよ。さっきもデータ確認したんだけどな」
 と、僕はブツブツ言いながら、彼女がくれたメモを見た。
「えっ、これは・・・・・・」
 そこには、さっき確認した星の軌道のデータではなく、多くの人の氏名があった。
「忙しいからここで確認して。わたしたちの結婚式に列席してくれる人だよ。特に筧家をね」
 僕は高校を卒業すると、アメリカの大学に渡った。高校時代の天文部がきっかけで天文に寄り興味を持ち、宇宙の神秘を紐解くような仕事がしたかった。
 一方、明日香さんはあれから順調に回復して、通常の人の一年遅れでアメリカの大学に入った。彼女に取ってはこの土地の方が向いているようだ。
 大学は違っていたが、大学を卒業して同じ研究室に入り、良き同僚となった。
 そして僕と明日香さんは、二ヶ月後に結婚をする事になった。しかし、相変わらず僕が尻に敷かれるのは免れそうもない。
「うちは問題ないよ。でもそっちの方は母親の所に2人の名前があるけど・・・・・・」
「いいじゃない。実際2人なんだから」
「確かに。でも、それなら・・・・・・」
 と言いかけて、僕は言葉を濁した。
「『それならお父さんももう一人いるでしょ』って言いたいの?」
 明日香さんは、うっすら微笑んで言った。
 僕は何も言わなかったが、『そういうこと』と、顔で合図をした。
 すると明日香さんは、
「ケプラーは来ないわ。だってあの日はオーストラリアで皆既日蝕で、観測が忙しいみたいよ」
 僕は呆れたように、
「可愛い娘の晴れの日に。本当変わっているよね」
「でも感謝しているわ。この世に誕生させてくれた上に、病気も克服させてくれて。だから俊太といっしょになれるのよ」
 明日香さんから、そう言われるのは慣れていないので、どう返答していいのか困った。
「何か言うことないの?せっかくさりげなく愛の告白をしているのに」
「あ、ああ。ありがとう」
 僕はとりあえず返事をしたが、愛の告白としては、ちょっと押しつけがましい。
 結局僕は、明日香さんの本当の父の姿を見ることはなかった。それはどうやら彼女も同じらしい。
 あの時、麻里子さんがアメリカに行き、明日香に自分が実の母親だと告白した。そして父親は自分が学生時代の教師でケプラー先生と呼ばれていたと言うことと、また同時に、今回の移植手術の費用を工面した人だと、全ての真相を話した。
 それを明日香さんは静かに聞いていたらしい。
 あとで聞いた話だが、明日香さんは新しい臓器と、そしてその真相を聞いたこの時、自分の第2の人生が始まったと感じたらしい。
 それからしばらくして、明日香さんはクラウドファンディングから連絡先を調べ、父親にお礼のメールした。すると数日後、その父親からメールが返されてきた。そこにはこう書いてあった。
『このぐらいの事しかやって上げられなくて本当に申し訳ない。でも、いつも遠くから見守っています。明日香のこれからの人生を悔いなく楽しんで下さい』
 その頃から彼女は、育ての父を『お父さん』、実の父を『ケプラー』と呼ぶようになった。
 彼女は 自分の宿命に抗うことなく、素直に受け止め生きていくと改めて思ったようだ。 
 それで構わない。
 なぜならば過去はどう抗っても変えることはできないからだ。
 そして僕と明日香さんはあの本当の『ケプラーの法則』のような、見えない力で導かれたような気がする。

 僕はこの研究室の壁に掛かっている四角いアルミフレームを見た。そこには『ケプラーの校則』があった。
 それは当然、日本語で書かれているので、明日香さん以外の同僚達は何が書かれているのかわからない。彼等は
「シュンタ。これはなんて書かれているんだ?」
 と同僚が訊いてきた。すると僕は
「これは僕と明日香を引き合わせたおまじないだよ。僕たちのこれからと、これからの人生の指針が書かれているんだ」と言った。
「よくわからないが、つまりラブレターなのか?」と聞き返した。
「ああ、そうだ。これは、僕たちのラブレターなんだ」
 僕がそういうとその同僚は、僕がいつもカバンにぶら下げているヒトデのストラップを指さして言った。
「シュンタは色んなものを持っているね。それはオ・マ・モ・リって言うんだろ」
「ああ、これも僕の大事なものさ」
 僕がそう言って横を向くと、明日香さんは隣で深く嬉しそうに頷いていた。


第1話  ケプラーの校則 第1話(出会い)|Akino雨月 (note.com)

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