明治ハレー彗星狂騒曲 第10話(最終話)
武三郎は岸とキヨを店の中へと案内した。
キヨは先日もここへ来たというのに少し緊張している様子だった。それに対して岸は店内が珍しいのか、商品などを興味深く見ていた。 武三郎は武雄の姿は見えなかったので、丁稚の小助に武雄の所在を訊いた。すると奥の部屋にいるという。
「岸さん、キヨさん。ちょっとここで待っとってください。今、武雄兄さんを呼んできますさかい」と言って奥の部屋へ足早に向かった。部屋の前に着くと武三郎は、
「武雄兄さん。入ってもええですか?」
武三郎は中にいる武雄に訊ねた。
「おお、武三郎か。ちょうどええ、入ってきてくれ」と返事がした。
武三郎が障子を開けると、武雄とツルがいた。
武雄は入り口に立っている武三郎に、
「今、ツルとも話していたんだ。だいたい話しは決まった。ちょどええ。武三郎にも話したい事があるからこっちへ来い」と言った。
武三郎には何が決まったのかわからなかったが、キヨたち二人をいつまでも玄関先で待たせておくわけにはいかない。武三郎は武雄の話しを聞く前に、今キヨが来ており、先日のお礼を言いたいと行っていると言うことと、岸という自分の先輩も一緒に来ており、梅原紙店の急成長の話しなどを訊きたいと言っていることを言った。
「そうか、まああの話しは後でもええか。お客様が来ているんならしょうがないな。ここへ通して上げなさい」
早速、武三郎は玄関先で待っている二人を呼びに行き、奥の部屋へと案内した。
すると部屋には武雄一人がいた。恐らくツルはお茶の用意をしているのだろう。
岸は深々と頭を下げ「お邪魔します」と言い、またキヨも「先日は大変お世話になりました」と深くお礼を言った。
武雄はキヨと岸の顔を見ると、二人とも座るように言った。
「確か、キヨさんでしたな。こちらこそ先日はお世話になりましておおきに。ツルは人使いが荒くはなかったですか?」
キヨは手をつき
「いえ、奥様にはほんまに良(よ)うして貰いました。色々なことも教えてく下さり感謝しております」
と、丁寧に言った。
「そうなら良かった。あいつの事だ。また何か忙しい時があればキヨさんを呼ぶかも知れませんが頼みますよ」
武雄は笑いながら言った。キヨも微笑みながら
「いつでもお願いします」と言った。
次に、岸が武雄に挨拶をした。
「初めまして岸治夫といいます。実はわても事業やっております。今、急成長する梅原紙店を見せてもらいとうて、武三郎君に無理を言って来ました」
そう言われ武雄は
「急成長と言われてもこんなありさまでして。いや、大した事はないですよ。それに商売はなかなか思うようには行きません。とりあえず座って下さい」
武雄は『急成長』と言われ嬉しくもあったが、実情はそう甘くはないと暗にそう言いたかった。
三人は武雄の向かいに、岸・武三郎・キヨの順に一列に座った。
すると武三郎が、岸の言葉に付け加えた。
「岸さんは僕の商業学校時代の先輩で、新しい事業に興味を持っておられるんです」
その時、ツルがお茶を持って部屋に入ってきた。
するとすかさずキヨはツルの方を向き、
「奥さん、この前はほんまにお世話になりました」とお礼を言った。
ツルは、それぞれの前にお茶をだしながら
「いいえ、お世話になったのはこちらの方。ほんまにおおきに」
そして武三郎の方を見て
「この前の海老のフライは、キヨさんに教わって作ったんです。武三郎さんは海老のフライがお好きやさかい」
武三郎はあの時の海老のフライを思い出した。衣が本当にサクサクで、中の海老もしっかり弾力があって。それとあの調味料はなんだろうか?見た目はうす黄色の山芋を摺ったようなクリーム状のものだったが、味は少し酸味があり、非常にフライによく合った。あれもキヨさんが作ったのだろうか?
「あの時の海老のフライはほんまに美味しかったです。それとあのフライにつける調味料のようなものも」
武三郎がそう言うと
「あれはタルタルソースと言うものやそうです。たまにミヤビでまかないで作ってます。でも武三郎さんがそんなに気に入ってくれるのなら、お店に正式なメニューとして出しても良いかもしれません」
武三郎は「それは是非」とお願いした。
ツルはもう一人の客人を見ると
「こちら様は?」
岸も海老のフライが食べたくなったのか、今の話しに聞き入ってしまっており、自己紹介が遅れてしまい、慌てて
「岸治夫といいます」と、先ほど武雄に言ったことと同じような事をツルにも言った。
そして岸は、
「しかし、ここは商品や奉公人の活気で満ちあふれてますな。これで大したことがないといわれたらどの商売もあきまへんことになりますわ」
岸は人懐っこい笑顔で言った。
「そう言って頂くのはありがたいが……。ま、後で武三郎に店の中でも案内させましょう」
武雄は渋い顔ながらもそう言い、今の製紙業界の現状と梅原紙店が洋紙に大きく舵を切ったことなどを岸に話した。
「ご主人はなかなか先を見る目がありますな。やはりこれからは洋紙の時代、それも大量生産せなあかん程の時代になりますな。この梅原紙店も東京に店を出しはるのも頷けますわ」
その言葉に武雄と武三郎は驚き、武三郎が
「どうしてうちの店が東京に店を出すの知ってはりますの?」
と訊くと、岸は少し得意そうに、
「それは、興味のある店やったら、予め情報収集ぐらいはします。この前、例のハリー彗星の事で色んなものを売っていたら、新聞記者が取材に来はりまして、確か平岡とか言う人でした。話して見るとその人は結構この店に詳しいみたいで、その時に予め噂は耳にいれておきました」
武雄は「平岡の奴め、色々とおしゃべりやのう」と小さい声で言い、渋い顔をした。
それが聞こえなかったのか岸は
「いや、ご主人はほんまに大したお人ですわ」
岸がそう言うと武雄は
「その事なんですが、実はそれはなかった事になりました」と言った。
岸は先程ここに来る途中、歩きながら武三郎からおおよそ、この家の事情は聞いていた。その武二の件と、今武雄が言った東京進出の件はなくなったと言うことが、岸の中でつながり、残念な気がした。しかし隣にいた武三郎は東京へに出店の一縷の望みを持っていたのか、
「え、なかった事って……。やはり、武二兄さんはうちを辞めさせると言うことですか?」
武三郎の気持ちとしては梅原紙店が東京に出店することよりも、武二の去就が心配だった。
武雄は腕を組みながら一瞬黙り、目をツルの方に向け合図したようだった。
「実は今、その事についてツルと話していたんだが……いずれわかる事や。武三郎はもちろん、キヨさんの身内のようなものだし、岸さんも事業とは思い通りに行かないという一つの例として知っておいてもらうにはちょうど良いかもしれない」
武雄はそう言うと、岸に東京の店は武二という、武三郎のすぐ上の兄に任せるはずだった事。そして今回の武二が失踪した事の大まかなあらましを伝えた。岸はその話しを確認するかのように耳を傾けていた。そして武雄がその話しを終えると、
「そうですか。それでその武二さんと言わはる方は、これからどないしはるのでしょうか?」
岸は神妙な面持ちで訊き、武三郎も同じような面持ちだった。
武雄は説明するように、
「実は昨夜、武二と登志子さんがわしの所に来たんだ。自分の気持ちを伝えるために。そして武二は登志子さんと話し合って決めたことを報告して行ってしまったわ」
「行ってしまったって。武二兄さんは今どこに?」
「今朝、東京に戻ってしまったよ」
武二はここに帰って来てから、自分の部屋には戻らず、身重の登志子のことを思ってか近くの宿に泊まっていた。そして昨夜、武雄に自分の気持ちを報告すると、朝一番の汽車で東京へ戻っていった。
「それで武二兄さんは何と報告されましたか?」
「登志子さんと何度も話し合ったようだ。あいつも今のままではどっちつかずとなってしまうと思ったのだろう。もしかしたらうちにも迷惑をかけるかもしれんと言ってきてな。つまりは、きっぱりとうちを辞めて東京で二人で画家として暮らしたいと言ってきた」
武三郎は武二が辞めるにしてももう少し先のことだと思っていたのか、少し残念そうな顔をした。
「武二兄さんは、やはりうちを辞めはるんですね」
「ああ。わしもしばらく考えていたが、ツルとも相談してな。それから昨夜のうちにお父さんにも相談したんだ」
「お父さんはなんと?」
武雄は何かを思い出したのか少し笑いながら、
「お父さんもあれでなにも考えていないようで、案外みんなの事を考えているかもな。『ええやないか。武二の好きなようにしてあげや』と言わはったよ。そのあとわしに『武雄には苦労かけてすまんな』ともな」
いかにも武左衛門らしい答えだとは思った。そして武雄は続けて
「それでこう言わはった『でも武雄。お前も何かやりたいことがあるんと違うか?今どうこうと言うことはないが、もし後悔するような事があったら、それはあかん。自分の事もよう考えるんやで』とな」
それを聞き武三郎は
「まさか、武雄兄さんまで……」
武雄はそんな事あるわけないだろうと言うような顔をして
「いや。そんな事はないが、今回のことで自分はこのままで良いのかと言うことを考えるきっかけにはなったよ」
武三郎は、今でもこの武雄が迷うことがあるのかと思った。
「いや、それはいいが今は武二の話だ。それで東京に行ってとりあえず登志子さんの個展を成功させる事が大きな仕事のようだ。あとはどうなるか?ただ武二は似顔絵描きの日銭稼ぎをしてでも、登志子さんと生まれて来る子供を養う覚悟があると言った。そこまで覚悟しているのであればしかたあるまい」
武雄はそう言ってお茶を一口すすった。
「そして、わしはどうして今まで武二の気持ちを汲んでやらなかったのかとも後悔した。この事をさっきツルに相談したら『あなたそんな事も分からはらへんかったんでしたの』と怒られてもうた」
武雄は頭を掻きながらツルの方を見て言った。
「確かにいくら兄弟って言うても、いつまでも家に縛っておくわけにはいかんと思たんや。早速武二には手紙を送って向こうで頑張ってこいと伝えるつもりや。それと僅かだが、多少の軍資金を添えてな」
武三郎は、武二にもう頻繁に会えないことを淋しく感じつつも、武雄の言葉にこれで良かったのではないかと思い、すこし胸が暖かくなるのを感じた。
「これで武二の話はこれで終わりや」
武雄はそう言うとさっきまでの渋い顔から幾分すっきりしたような顔になった。そして話しを続けた。
「それからさっきも言ったが、お父さんの言った『後悔しない人生』とは何かと思って、わしはずっと考えておったんや。やはりわしはこの店を大きくしたい」
「それじゃ、僕はそれを一生懸命手伝います」
武三郎は改めて決意を言ったつもりだったが、武雄は右手でそれを否定するように顔の前で手を振り
「いや、そうやなくて。製紙業に携わりたいんや」
「製紙業?」
「そうや、いつまでも紙の問屋のままでは大きくはならへん。だから紙を作って売るんや」
「紙の製造ですか」
武三郎は紙を作ると言うと、いわゆる手漉き和紙のように一つ一つを手作りで作るイメージだった。しかし、武雄の言っているものは恐らく洋紙の工場だろう。そうなると全くイメージが掴めなかった。
すると岸がいきなり大きな声を上げた。
「それはええ事やないですか。やはり時代は洋紙です。これからどんどん洋紙を作ればバンバン儲かりますよ」
武雄はやや興奮気味の岸に「まあまあ」と少し落ち着くように言った。
「確かに岸さんの言わはるようにこれからは洋紙の時代やし、国産の洋紙を安定供給できれば今のこの紙問屋と比べものにならない商いができるかもしれん。しかし現実はそんなに甘くはない。しかし、わしはそれをやってみたいんや」
武雄の目は希望に燃えているようだった。
「それに巷じゃちらほら国産の洋紙を生産する工場もできはじめたらしい。それならわしにもできるはずや。よそに負けてはおられん。平岡のいる新聞社や、いやそれより大きな新聞工場にもうちの紙を納めるんや。そう思たらいつまでもこの小さい店だけで商いをするのが勿体なくなってな」
それではこの梅原紙店はどうするつもりなのだ、と武三郎は思い、
「それじゃここは?この梅原紙店はどうなりますの?」
「もちろんわしがこの店を捨てるわけがない。だがな、今まではわしはこの店を継ぐものやと考えていた。しかし、いつも何かが違うような気もしていた。何も考えずに好きなことをしている平岡なんかを羨ましいと思ったこともある。それを気付かせてくれたのは武二やったんや」
武三郎は武雄に確認するように
「それじゃ、武雄兄さんはその製紙工場とこの梅原紙店を一緒に経営されるわけですね」
そういわれると、武雄は一瞬ツルの方を見て何かを確認したようにし、再び武三郎の方を向いて、
「そうしたいのだが、さすがに工場の立ち上げと、この店の商いを両立し続けるのは難しいだろうと、今もツルとも話していたんだ」
「つまりそれはどういうことですか?」
武三郎はやや不安に思った。
すると、ツルが武三郎に言った。
「今、武雄さんと話していたのはその事で、やはり製紙工場を立ち上げるためには、この店を誰かに任せないとあかんと思います」
岸はそれを聞いてすかさず
「そやったらそれは武三郎に任せたらええんと違いますか」
武三郎は話しの展開からそうなると予想していたが、なにもそれを岸が念を押すように言うことはない。
武三郎は慌てて
「ぼ、僕は……それはちょっと荷が重すぎます。とても武雄兄さんのようには……」
武雄は優しく
「わしも岸さんの言われるように、この店を武三郎に任したいんや。しかしな、それはすぐと言うわけやない。紙の工場の話しやて、まだ思いついたばかりや。これから計画もたてなあかん。まだ時間もかかる。それまでに武三郎はしっかり勉強していって欲しい」
そう言った。
そして岸がまた口を挟んだ。
「良かったやないか武三郎。これで一国一城の主や」
「そんな簡単に言わんで下さい。もう少し事を慎重に……」
「そこがお前のええ所であって、悪いところでもある。せっかく目の前にチャンスが来たんや。絶対ものにしいや。これからは、わてと勝負や。どっちが商いを成功させるかと言う大勝負や」
岸はまるで自分の事のように嬉しがっていた。
そんな岸の顔を見て武三郎は、この人は本当に自分の事を考えてくれているかもしれない。なのに今まで心のどこかで岸を軽蔑していた。
武三郎はその事を後悔した。
そして小さく言葉を漏らした。
「岸先輩……堪忍」
「なんでわてに謝るんや。お前なんか悪いことしたんか?」
岸は不思議そうな顔で武三郎を見た。
「いや、別に」
「おかしな奴やのう」
武雄は、武三郎の事を思う岸の顔を見て、
「武三郎。ええ先輩持ったな」
と優しい目で武三郎に言った。
しばらくして武三郎には思いついたことがあった。
「もし、この店を僕が任されるとしたら、僕の好きなようにしてもええですか?」
「それは別に構わんが、それはどういうことや?」
武雄も岸も眉をひそめた。
「いや、まだ具体的にどうこうではなくて……。ただ、洋紙で急成長した梅原紙店ですが、和紙をもっと積極的に販売したいと思っているんです。先日もここにいるキヨさんの紹介で建具屋との取引をさせてもろて、その建具屋さんとは障子紙を卸させてもろうとります。和紙には『ものを書く』と言う以外の色々な使い道があります。僕はその可能性を追いたいと思っているんです。キヨさんがその事を教えてくれたので」
武三郎はキヨの方をそっと見た。キヨは恥ずかしそうに、
「わたしは、ただお客さんが話していたことを言っただけで……」と小さな声で言った。
今まで言われたことはきちんとこなしてきた武三郎だが、今初めて自分で積極的にしたいことを口にしたなと武雄は思った。
「ええで。今のお客様を大切にした上なら、お前が好きにするがええ。武三郎も自分の信じた道を進むが一番と思う。それにお前もキヨさんが側にいてくれはるならもう一人前や」
武雄の横では、ツルも同じ考えのようで、キヨを見て微笑んでいた。
しかし、キヨの表情は話しの展開とは反対に、徐々に曇って行き、思い詰めた表情になっていった。キヨを見ていたツルは思わず、
「キヨさん。どないしたんですか?顔色がすぐれんようだけど」
そう言われたキヨは突然、座っていた座布団を外して土下座をして大きな声で言った。
「堪忍。旦那様、奥様。堪忍です」
と、
「キ、キヨさんどないしはりました」
隣に座っている武三郎は、キヨの突然の行動に驚き、とりあえず顔を上げるように言った。他の皆も突然のキヨの謝罪に驚いた。
武三郎に促され、キヨは顔を上げたが、まだ手をついた格好で、
「先程からわたしのようなものに、色々良いように言って下さって恐縮しておりました。でもわたしはそんな皆様が思うような素晴らしい女ではありません。先日も奥様からたくさんお褒めの言葉を頂きましたが、その時も実は胸が苦しくて……」
キヨの突然の行動に武三郎はオロオロするばかりだったが、武雄がキヨに「どうしはりました?を追って説明して貰えますか?」と言った。
キヨは付いた手をようやく戻し、そのままの格好で、自分の心中を話した。
自分はかつて薬問屋の二男と結婚していたが、子には恵まれず、夫は外で女を作り、その女に子が出来たため別れさせられた事。そして出戻りである自分は武三郎よりも三つも年上であること。また先程その別れた男とバッタリ出会って因縁をつけられたことなどを語った。その時はキヨの目から涙がこぼれ落ちていた。
するとツルは
「なんや、そんなことでしたの。わたしはなんかもっとすごいことでもあるかと思いましたわ」
と、何事もないかのように笑いながら言った。隣では武雄も頷いていた。
キヨは涙を手で拭いながらも、ツルの言ったことがよくわからなかったようで不思議そうな顔をした。また武三郎としても、キヨを紹介する際に、年上で出戻りというのはいささか気が重かったので言い辛かったのだが、そのツルの言葉は意外だった。
「別になんでもないことですか?」
そう訊いたのは武三郎だ。
「わたしかて、武雄さんより年上やし、今どき離婚歴があるというのも珍しくはないですわ。むしろ一回結婚をされている方が経験があって良いことじゃないですか」
ツルの話しに、キヨと武三郎は安堵したと言うよりもポカンとした表情だった。
「それで、もしこの話しを武雄さんやわたしたちが聞いて反対してたら、武三郎さんはどうしはるつもりでした?」
ツルにそう訊かれると、武三郎は一瞬黙ってしまった。
「まさか、迷ってはるわけではないですよね。武三郎さん」
ツルは少しキツい声で武三郎を追求した。
その言葉に武三郎はきっぱりと、
「いえ、迷いはないですが、話しが急だったのでどう話したらええものかと」
武三郎が頭を掻きながら言うと、
「それならええですけど。わたしたちが結婚するときは、うちの親にずいぶん反対されたものです」
ツルがそういうと武雄は、少し気まずそうな顔で天井の方を見ていた。
「でも、この人の偉いところはそれでも『絶対に幸せにしてみますから』とうちの親に土下座までしていたんですえ。おかげで、今はなに不自由なく生活させてもろうとります。武雄さん、おおきに」
ツルがそう言うと、武雄の威厳は一気で吹き飛び、顔には照れくささと一緒にただの青年になっていた。続いてツルが、
「キヨさんも今まで辛かった事があるんじゃないですか?でも武三郎さんは今からこのキヨさんを大事に、幸せにして上げなくてはなりませんよ。その覚悟がおありですか?」
キヨは自分の放った言葉が、全然意外な方向に行ったことに驚いたようで、
「あ、奥さん、わたしはそんなつもりで……」と慌てて訂正しようと思ったようだが、その時
「もちろん、あります。もうキヨさんを悲しい目には合わせません」
武三郎はきっぱりとそう言いきった。
「よう言うた、武三郎。今日はめでたいことばかりやのう」
横で聞いていた岸は満面の笑顔で言った。
そして、
「確かにさっき、キヨさんの言う前の旦那に道でバッタリ会いました。ほんまにしょうもない男でしたわ。キヨさんのあることないことぶちまけて。でも、その男は武三郎の事が羨ましかったのかもしれんな。だから何とか引き離そうと難癖をつけたかもしれんな。もちろん武三郎はそんな話しを本気にしてないわな」
もちろんそんな話しを本気などしていない。しかし・・・・・・ほんの僅かだがキヨに疑念を抱き、色んなことが頭をかすめたのは事実だ。キヨの事を少しでも疑った事を武三郎は心の中でキヨに謝罪をした。
しかし、キヨはそんな武三郎の心中も知らず、皆の賛辞にいよいよ恐縮したようで、
「堪忍です。武三郎さんも堪忍」と俯いてしまった。そう言われた武三郎も、キヨのことを少しでも疑った後ろめたさから、
「いえ、僕の方こそ堪忍」と、しばらく噛み合わない会話が続いたが、武雄がそこに入り、「まあええやないか。お互い尊重していると言うことやろ。終わりよければ全てよしや」
そして続けて
「今は個人が家を大事にしながらそれぞれの夢を叶える時代です……ってツルにも言われてな。それを聞いてわしもその通りやと思った。武二のことにせよ、武三郎のことにせよ。わし自身の事にせよだ」
武雄は清々しい表情でいった。武三郎はその顔を見て、武雄が心底からそう思って話をしているのだな感じた。
そして岸もその武雄の姿と言葉に、
「立派です。お兄さんこそ、この明治の時代の先端の考えの方じゃありませんか。いえ、お世辞ではおまへん。自分も含め三人それぞれ意思を尊重しはるとは。その上一人は商売とは全く関係ない世界になるにもかかわらず、お互いを認め合う。懐の広い人やないとできへん。世襲やしがらみもなく、本人の意思を認めて人生を切り開く。これが明治や。これからの日本や。わてはお兄さんを尊敬しますで」声高らかに言った。
すると武雄は顔の前で手を振り、
「武三郎の先輩に、えらい家の恥ずかしい所を見せてもうて堪忍。そんなええもんやあらしません。先程も言いましたが、つい先日まではうちも、この店を大きくしたいがために弟たちを縛り付けようと思うてました。でも、いくら兄弟や言うても考えはみんな違うんやなということにやっと気がつきましたんや」
武雄の言うことを岸はさらに感心するように聞き、そして
「今日は梅原家を始め、人類は新たな始まりやと思うたらええんと違いますか?」
「今日が人類の新たな始まり?」
「そうです。本当なら今日はハリーの尾によって、人類が滅亡したかもしれん日でした」
いったい何の話しなのか判らなかった武雄だが、すぐに今日がその日だと気が付いたようだった。
「ああ今日がその日でしたか。フッフッフッ。ハリーもええ日に来ましたな」
武雄の顔は明るかった。
「さっき通り過ぎたハリーの後、全て終わったかと思えば、過去の事などどうでもええと思いませんか。再出発には丁度ええ日です」
「岸さんは上手い具合に言わはりますな」
岸の言葉に武雄もまんざらでもない様子だった。そして岸は武三郎の肩をポンと叩いた。
「なんかここに来て良かったわ。老舗でも新しい事を考える時代やって事がわかって。一人一人の思いを尊重するお兄さんにも会えてな」
岸は満足そうに言った。
そしてとりあえず話したいことを話した武雄は、武三郎に岸を店の中を案内して上げなさいと言った。すると岸は、
「それには及びません。今の話しを聞けただけで十分です。わしも何となく自分の進みたい道が見えてくるような気がしました。ほんまおおきにです」
そう言うと岸は、武雄を始め皆に礼を言って席を立った。
「岸さん、もう行くんですか?」
岸は座っている武三郎を見下ろすように、
「おお。とりあえずまた大阪に戻るわ。また一から出直しや」
部屋を出て行く岸を武三郎は店先まで送って行くと言った。
店を出て上を見上げると、相変わらず青い空が広がっていた。
「武三郎も元気でな」
「はい。岸さんも」
「今度ここに来る時、ここは武三郎の店なんやな。どんな風に武三郎らしくなっているか楽しみや」
岸はそう言い荷物を担いで、青い空の下にある梅原紙店の看板を見上げると悠々と歩いて行った。
武三郎にはその後ろ姿が、さっきまで怪しいものを売っていた者とは違う人のように見えた。
そして武三郎は再び奥の部屋に戻ると、自分がいない間に部屋に来たのだろうか、いつの間にか武左衛門が皆の前に立っていた。
「お父さん。いらしたんですか」
武三郎がそういうと、武左衛門はとぼけたように
「今日はあの恐ろしい日やろ。もしもの事があるといかんと思うてな、わしの部屋で皆の数だけゴムチューブに空気を入れて準備してたんや。でもなにもなかったみたいやな」
武左衛門は真剣な表情でそう言うと、そこにいた武雄やツルやそしてキヨまでもが、その言葉に大笑いした。
「いやいや笑い事ではあらへんで。もしもの時の準備は大切やで」
と、もっともらしく言った。そして、
「それはええとして、さっきどこかで聞いたことのある声がしたんや。大きな声でな。どこかで聞いたことがあると思てここへ来たんだが。あの声は確か……」
すると武雄が
「なんでも武三郎の商業学校時代の先輩がさっきまでおられましたわ」
「そうか、武三郎の先輩か。それならええわ。人違いやったかもな」
武三郎は胸をなで下ろした。さっきここにいた岸があのゴムチューブを売った張本人だとわかれば色々と面倒になるかも知れないと思った。間一髪だった。
しかし、武左衛門はどうもあの声の主が気に掛かるらしく、首をかしげるも空いている席に座った。
「あら、すいませんお茶を用意しますね」
ツルがそう言うと
「いや、お茶なんかはええんや」
と言い、武左衛門はさっきの声の主の事などどうでも良くなったようで、そこにいたキヨの方を見た。
「あなたは、先日も葵祭の時にうちで手伝ってもろうた武三郎の……」
「はい、森下キヨと言います」
「よう来てくれはったな。おおきに。うちはこんな家族ですわ。よそから見ると結構格式張った家族のように見えるかもしれませんが、みんなそれなりに自由にやっております。それに武三郎はまだまだ、世間の厳しさもよう分かっておらん所もあります。ですからよろしくお願いします」とキヨに向かって頭を下げた。
キヨは驚き、恐縮しながらも
「いえ、そんなわたしなんかとても力になれないし、それにわたしは……」
キヨがそこまで言った時、武左衛門は右の掌を目の前にあげ、『なにも言わなくてもいい』と言う格好した。
「ええんですよ。過去なんかはどうでも。今からが大事です」
そう言うと、静かに立ち上がりまた自分の部屋に戻って行った。
「お父さん、さっきの話しを聞いてたようやな。あの人はあれで色々気を遣う人やさかい。もしかしたらあのゴムチューブも、何かの小道具だったかもしれんな」
武雄は武左衛門が去って行った後、出て行った襖を見ながら言った。
岸や武左衛門が去った後もまだ話しは尽きず、特にツルとキヨは馬が合うのかいつまでも料理の話しなどをしていた。すると時間はあっという間にすぎて行った。
「堪忍。こんな時間までお邪魔してしもうて。色々お話していただき旦那様も奥様もほんまにおおきにです」
キヨはいつの間にか時間が過ぎていることに気付いた。そして武雄とツルに挨拶をするとすぐに帰ろうとした。それを武三郎は送って行くと言った。
夏至の一ヶ月前の夕暮れの空はまだ明るかった。ハリー彗星の騒ぎも、もう終わったのか街はいつもの日常を取り戻していた。
「キヨさん、結局遅うまでうちにいてもうろうて堪忍です。大事な買い物に行かれへんかって」
「武三郎さん、なに言うてますの。わたしの方こそ遅くまでお邪魔させてもろうて堪忍です。でも、今日はほんまにおおきに」
キヨにそう言われると武三郎は照れくさそうに
「そう言うのは僕の方です。ほんまにおおきに。それと……」
言いかけて武三郎は言葉に詰まった。
「それと……?」
そう言ってキヨは次の言葉を待った。
「それとなんか今日は自分の思いを……キヨさんに対する思いを小出しにするように言って堪忍。はっきりと言わんと、ちょっとずつ、それも他の人に言ったりして。でも、僕の気持ちはずっとキヨさんを大事にしていきたいんです」
武三郎はそう言いながらも、なかなかキヨを真っ直ぐ見ることが出来なかった。するとキヨは
「もう十分わかっています。わたしのほうこそ、ほんまにおおきに」
キヨもまた、照れくさそうに武三郎を見ていた。
翌日の二十日の新聞は、昨日のハリー彗星の通過の事で紙上は賑わっていた。
ミヤビでも再び客が戻っていた。来店した多くの客は新聞を手に取り、閲覧する新聞がなくなると、他人が読んでいる新聞を覗き見しながら、あれやこれやとハリー談議に花が咲いていた。
そこへ今日も武三郎がやってきた。しかし今日は昨日と違い、座れるテーブルなどなく、今日は女将の白木松子も忙しそうに、ほかの女給と同じように動き回っていた。
「武三郎さん、堪忍。いつもの席は埋まってますさかい、奥の……あの平岡さんの隣が空いております」
松子はお盆を片手に忙しそうに言った。
すると少し遠くから平岡の声がした。
「武三郎君。こっちこっち」
声の方を見ると、確かに平岡の隣の席が空いており、そこに座るよう彼は言った。武三郎は言われた通りそこに行き、平岡の隣の席に着いた。
「平岡さん、おおきに。それにしても今日はえらい人ですね。昨日なんかは閑古鳥が鳴いている状態でしたのに」
「そうや。結局ハリーは何の災いも起こさず行ったもんやから、今日はそのお祝いみたいなもんや」
平岡はどういうわけか少しテンションが高く、楽しそうに言った。
「実は僕は昨日から寝ていなくてね。帝大の望遠鏡の取材に一日張り付いていた上に、街の人たちのハリー彗星に関する声も聞いたりしてね。だから少しハイテンションになっているかも知れないんだ。気に触った堪忍やで」
平岡がそういうと、そこへキヨがテーブルの横まで来た。
「堪忍です、武三郎はん。今日は朝からこんな感じで」
平岡の隣にいる武三郎を見つけて、キヨは駆け寄り済まなそうに言った。
「昨日とは違い、今日はえらい繁盛振りですね。今日はあまりゆっくりも出来なさそうだ」
武三郎がそう言うと、隣にいた平岡が
「まあ、そう言うなよ。それで武二君はあれからどうなったんだい?そこの所をまだ聞いていないが……」
武三郎は(またか)と思ったが、どうせ平岡の事だ。どこからかまたその話を聞いてくるのだろう。ならば今、本当の事を話した方が良いのではないかと思った。
「武二兄さんは東京に帰りはりました」
「東京に帰った?」
「ええ。武二兄さんはこれから東京で画家として暮らしはります」
武三郎はそう言って、平岡に今までの経緯と、昨日武雄が武二について話した事をかいつまんで話した。
すると平岡は
「そうか。それはええ事やと思うで。しかし武雄も思い切ったもんやな。ああ見えて武二を結構頼りにしていたんやで」
武二はそれを聞き、武雄もそれなりの覚悟があったのだと改めて思った。それと、武雄が新しい製紙工場を作ることや、自分が梅原紙店の経営を任される事は、平岡には内緒にしておいた。事が順調に進めばそのうち平岡にも知られると思うが、今はその情報はまだ自分たちだけに納めたかった。
その時、武三郎の横に立っていたキヨの顔が、急にこわばるのが見えた。「キヨさん、どないしはりました?」
キヨの顔は店の窓の外を見ていた。武三郎もキヨが見ている方向を見ると、そこにはあの末雄がこっちを見ていた。武三郎は一瞬目を疑ったがよく見ると、どういうわけか末雄の横には岸が立っていた。岸はこっちを見てどうやら窓を開けるようにと言っているようだった。
武三郎は岸の言うとおり窓を開けた。
「よう、武三郎」
岸は手を上げて武三郎に挨拶した。しかし彼は昨日別れる間際に、大阪へ行くと言っていたはずなだが(どうして今頃こんな所にいるのだろう)と武三郎は思った。
それに何より不思議なのは、岸と末雄は仲良く並んでいたことだ。
「武三郎とキヨさん。ちょっとこっちに来てくれんかの。いや時間は取らさん。挨拶するだけや」
武三郎とキヨは顔を見合わせた。
すると武三郎の隣にいた平岡が、
「あれはいつだったかのもの売りじゃないか。相変わらず大きな声やの。まるで拡声器みたいや」
平岡は前に一度、岸に取材をしたことがあったので、
「彼は武三郎君の知り合いかい?」
と訊いた。
「はい。あの人は岸さんと言うて、僕の商業学校の時の先輩なんです」
すると平岡は、
「そうなんか。彼は武三郎君とキヨさんに何か用事があるようや。行って上げなさい。この席は空けとくさかい」
武三郎は平岡に「おおきに」と言って、キヨに
「岸さんがいるから大丈夫や。とりあえず会ってみよう」と言った。
武三郎とキヨは玄関の方まで行き、会計台にいた松子に「
ちょっとだけ外に出てきます」と言って、武三郎に守られるように外へ出た。
二人が玄関を出て、店から少し離れた所まで来ると、岸と末雄が近づいてきた。
するといきなり末雄が二人に頭を下げた。
「昨日はすまなんだ。わい、この人と一緒に大阪に行くことになったんや。それで挨拶っちゅう訳やないけど……」
まるで昨日とは別人のような態度に、武三郎とキヨも驚いた。
キヨはまだ状況がわからない様子で、武三郎もまた岸に
「これは一体どういうことですか?」と訊ねた。
岸は武三郎に事の成り行きを説明した。
「いやな、昨日あれから帰ろうとしたら、まだコイツが辺りをウロウロしていてな、『まだ懲りずにこんな所にいるんか!』と一喝してやったんや」「そうしたら?」
「そうしたら、コイツは少しビビリおった。そして、なんでここを彷徨いていたのかと訊いたところ、どうやらコイツは今仕事がないらしい。どうやらこの辺でもう一回キヨに会えたら、金の無心をするつもりでいたらしいんや」
「なんて奴なんだ。あれだけの事を言って、その上金の無心をするなんて」
武三郎は、そう言って末雄の方を見た。
末雄はすまなそうにうなだれていた。
そのうなだれた姿を見て、武三郎は少し哀れに思ったのか
「仕事がないんですか?」と訊いた。
すると末雄は岸の横で頷いた。
「どうやらわしが売っていたゴムチューブに更にそれに値をつけて売って生活をしていたらしいが、もうハリーは行ったさかいない。失業や」
武三郎とキヨは改めて末雄を見ると、彼はやはりうなだれていた。
「どうやら、コイツはずいぶんとやけになっていたようで、たまたま会ったキヨさんに不満をぶちまけるだけぶちまけて、金の無心をするのを忘れていたと言うわけや」
岸は末雄を見て言い、さらに
「それでコイツに、そんな事ばかりやっててもあかんやろと言ったんや。そして仕事がないんやったら、わてと一緒に大阪に行くか?って言ったんや」「一緒に大阪に行くんですか?」
武三郎は少し驚いた。
「ああ。今度の仕事は一人でするっちゅうわけにはいかんのでな。ちょうどええと思ったんや。わては、昨日のお兄さんの話を聞いて、何か自分の得意なものや、やり甲斐のあって、新しい事業を始めようと思ってな。その事をこの末雄に説明して、わての意気込みを語ったんや」
そういう岸の顔は、既に新しい事業をに可能性を見つけているような表情だった。武三郎はその仕事が気になった。
「岸さんが意気込むような仕事ってなんですか?」
「東西屋や」
「トウザイヤ?」
「そうや。『東西、トーザイ』って言うて、ラッパや太鼓を鳴らしながら、依頼された店の宣伝をする。いわゆる歩く広告業や」
東西屋、あるいは広目屋と呼ばれる広告業は、大正時代になるとチンドン屋と言う名前で全国各地に広がった。
「それをするには何人か人がいる。とりあえず職がないようであればわしと一緒にそれをせんかと、この末雄を誘ったんだ」
それを聞いてキヨは
「それを末雄さんが?そんな事出来るんですか?」
すると末雄は、
「いや、昨日たまたまこの人に会ってな。この仕事に掛ける意気込みを言われたんや。そもそもわしはなにか情熱を持ってやることなんて今までなかったさかい、ここは一度死んだ気でやってみようかと思ったんや。もしかしたらほんまに昨日のハリーの毒で死んでいたかもしれんしな」
末雄はキヨにそれを言うのが少々照れくさいようだったが、それが口からでまかせではないことはよくわかった。
そして、末雄は武三郎に近づいてきた。武三郎は一瞬身を構えたが、
「昨日は色々堪忍。わしはさっき言うとおり生まれ変わるさいかい、キヨの事をよろしく頼みます」と行って頭を下げた。
昨日とはあまりにも違う、末雄のしおらしい態度に、武三郎はどうしたら良いのかわからなかったが、一瞬間を置いて一緒に頭を下げた。
すると岸は
「それだけ言いにきたんや。この末雄がもう迷惑をかけんと言うことと、これからの人生をやり直す事。それからわての事業の紹介にな」
岸はそう言うとすぐさま踵を返し
「それじゃ、また。今度来るときは大勢を引き連れて、武三郎の店を宣伝するさかい、その時はよろしくな」と言い、岸はさっさと行ってしまった。
その後を、末雄もキヨと武三郎に頭を下げ、岸を追うように行った。
二人はその後ろ姿を影が小さくなるまで見ていた。
その時、武三郎は何気に手を入れたポケットの中に何かが入っていると思った。
取り出してみるとそれは、あの時岸から無理矢理もらった霊薬ゼムだった。武三郎はその取り出した霊薬ゼムといわれるものをしばらく見ているとキヨが
「それは何ですか?」と訊いた。
「ハリーはもう行ってしまいましたけど、これは霊薬ゼムとか言って、ハリーの毒除けだそうです。前に岸さんから貰いましたんや。ちょうど二つあります。キヨさんも一つどうですか」
武三郎は二つある袋のうち一袋をキヨに渡すと、もう一つの袋を開け、中に入っていた仁丹のような粒を口に入れた。
口の中に入れると、すぐに今まで感じたことのない爽やかな味が広がった。キヨも武三郎と同じようにその袋を開け、その粒を口の中に入れた。
「なんか口の中が爽やかな感じになりました」
「そうですね。気持ちも空も爽やかになりました」
そして、武三郎はキヨの正面を見て、
「キヨさん。ほんまに色々ありましたけど、絶対に幸せにしますよって、これからもよろしくおねがいします」
武三郎は改めてキヨを見て言った。
それにキヨは笑顔で「こちらこそ」とお辞儀をした。
「それじゃ、そろそろお店に戻りましょうか」
武三郎がそういうとキヨは「はい」と返事をした。そして武三郎が歩き出そうとした時キヨは立ち止まって空を見上げた。
「彗星ってほうき星って言うんですよね?」
「え?はい。確かにほうき星とも言われますがそれがなにか」
武三郎は空を見上げるキヨに訊いた。
キヨは
「ほうき星ですから、その空の大きな箒が、わたしたちの災いを祓って行きはったんですやろか」
武三郎も同じ空を見上げて、
「そうですね。ほうき星と言うぐらいですから。みんなの災いは取り払ったに違いありません。そしてその後は皆が幸せになりますようにと」
武三郎は空を見ながら手を合わせると、キヨも同じように手を合わせた。
二人が見上げる空は、何事もなかったかのように、いや、暗闇を取り払かったように、美しい青い空が、どこまでもどこまでも続いていた。
(了)