近くて遠い「地域研究」
昨日、所属している(といっても後述するように形だけなのですが)日本中央アジア学会の会報をご郵送賜りました。某近い知り合いの方が記事を書いていらして、さすがであるなと感嘆しながら、中央アジアおよび周辺地域の様々なトピックについての報告を拝読しました。いろいろなジャンルの人がいて、にぎやかで大変よいものだなと思います。なんか他人事みたいな言い方でアレなのですが。
いや、正直なところ自分が研究としてやっていることというのは、はたしてエリアスタディーズ(まあ、日本語でそのまま「地域研究」と言えばすむのでしょうけど用語の話はさておいて)の中に入るのかどうか、まったく自信がありません。そのことを強く感じるのは、こういった会報に何か寄稿できるのかどうかと想像してみたときです。はたして、何が書けるんでしょうね?
以前、アゼルバイジャンについては「言語と文字」というテーマで短い解説の文章を本に掲載してもらったことがあります。自分にとっては「エリアスタディーズ」と冠するシリーズの本に自分の名前が載るということはかなりうれしいことだったので、ここnoteでもたびたび露骨に宣伝したことがありますが…
こういったジャンルでは文法そのものの話というよりも、ソ連時代に彼らが経験した文字の変遷の話や、現在の言語使用の状況といった社会的側面などのほうが要求されているのだろうな、という感触を今も持っています。
そもそも、地域研究というジャンルはあまりにも関連する学問分野が多岐にわたるので、つかみどころがないというか漠然としたような対象という感想を個人的に持っているのですよね。いろいろな専門分野の人が、当該地域に対象を絞って考察したことの総体として考えたほうがよいのだろう、というべきでしょうか。ただそうすると、自分の場合の主な関心事はトルコ語とアゼルバイジャン語あたりの話になるのですが、地理的な「地域」というくくりで考えたときに、トルコとアゼルバイジャンは場合によってはそれぞれ別々の名称がついてしまうのですよね。
一方で、「テュルク学」という名称も国内外で見かけることもあるので、地理的な区分はあくまで便宜的なものにすぎないんだから、ということはあるのだろうとも思うのですが。いずれにしましても、自分のやっていること、研究成果として出しているものというのはあまりこの「地域研究」への貢献を目指すという実感はないよなというのが正直なところなのです。
一方、言語はなんといってもそれを使う人がいてこそ、ということがあります。そのために、現地に行って調べてみないとどうにもならないという領域もやはりあります。おそらくそのためだと思われるのですが、最初に言及した会報など拝読しますと、ちょっと執筆意欲が刺激される部分もないこともない…それゆえにこのジャンルが自分には身近に感じられるわけです。ただ、それと同時に自分が地域研究をやっているという実感がないゆえの遠さもまた感じるのもまた正直なところです。
トルコもアゼルバイジャンも、はたまた中央アジアいずれにせよ物理的な意味でも学問分野的な意味でも、近くて遠い存在だなと思います。ただ一つ、地域研究ガチ勢と同じく私自身も現地には定期的に訪れられたらいいなと思っていることくらいは言いきってもいいのかもしれません。