フクシマからの報告 2019年春 原発事故難民3人を再訪 帰郷・失望 単身帰還 隣町避難 8年後の今も事故前の暮らしは戻らず
ここに一枚の写真がある。福島第一原発事故から約半年後の2011年9月5日、山形県米沢市で撮影したものだ。原発事故直後から撮りためてきた写真アーカイブを探してみたら、出てきた。
木幡(こはた)竜一さん(左)と但野(ただの)雄一さんが写っている。当時、二人は福島県南相馬市から避難して、米沢市の小さなビジネスホテルを避難所として割り当てられていた。そこを訪ねた時のものだ。
それに先立つ2011年3〜4月にかけて、私は原発被災地である南相馬市に取材に入った。木幡さんと出会ったのはその時である。トラックや鉄道輸送が絶え、商店から水や食料が消えてしまった故郷に、木幡さんは避難先の米沢市から物資をトラックに積んで往復していた。その木幡さんが「山形の避難先にも取材においで」と誘ってくれた。そうして木幡さんとのご縁が始まった。
これまで本欄でも何度も書いてきたように、私は2011年3月11日の福島第一原発事故で故郷を避難した人たちとずっと連絡を続けている。時おり現地に会いに行く。メールやLINEでもやりとりしてきた。木幡さんもその一人である。
そんな人たちの苦闘は2012年11月に「原発難民 放射能雲の下で何が起きたのか」(PHP新書)でいったん書籍として刊行した。その後も折に触れて報告を公表している。本欄でも何回か書いてきた。同じ人の話を聞き続けることで、その生活や心境の変化が記録できるからだ。それが私の「原発事故の定点観測」である。
2019年3月、そうした「原発難民」を再び訪ねてまわり、話を聞いた。原発事故からちょうど8年目である。今回は木幡さん、但野さんら3人の近況を報告しようと思う。3人とも隣県の山形県で避難生活を送った。
(1)木幡竜一さん(56) 土建会社を経営していた。 長女、次女、長男がいる。南相馬市から山形県米沢市に避難。約2年で故郷に戻った。しかし事業は再開できないままになった。故郷からの転出を考えている。
(2)但野雄一さん(38) トラック運転手 長男、長女がいる。南相馬市南部から山形県米沢市に避難。避難先で長男が生まれた。南相馬市の北隣の相馬市で避難を続けている。
(3)石谷貴弘さん(48) トラック運転手→運送会社経営 長男、次男、三男がいる。山形県飯豊町に避難。福島県に戻るも、奥さんと子どもを福島市に避難させたまま自分ひとりで南相馬市に「単身帰還」した。家族を避難させる二重生活のために起業して独立した。
結論から言うと、原発事故前の暮らしに戻った人はいない。三人とも、何らかの形で原発事故によって生活が一変してしまった。
3人の故郷である南相馬市は、原発から20キロの強制避難区域ライン、30キロの屋内退避地区ラインが走り、市域を3つに分断した。3人が住んでいたのは20キロラインと30キロラインの間、屋内退避区域である。ここは強制避難の対象にならなかった。それでも危険を感じた3人は、それぞれ自家用車に家族を乗せ故郷を脱出した。
それから8年。3人の暮らしはどうなったのか。
↓2013年6月25日に南相馬市役所1階ロビーに掲示されていた汚染マップ。下に20キロラインが見える。
(以下のインタビューは2019年3月15日から18日にかけて、福島県南相馬市で行った。話が飛んで話題が前後した部分を入れ替えて整理した以外は、できる限り一問一答をそのまま再現するよう努力した。
冒頭の写真:但野雄一さんと長女の瑠南ちゃん。4歳。震災後に避難先で産まれた。2019年3月19日、福島県南相馬市で。
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