ゼレンスキー国会演説から学ぶ 「外交言語のリテラシー」 本当に重要なのは「何を言ったのか」より「何を言わなかったのか」 ウクライナ戦争に関する私見5 2022年3月25日
2022年3月23日、日本の国会に向けてウクライナのゼレンスキー大統領が12分間のオンライン演説をした。生中継である
(巻頭写真はウクライナ政府大統領府公式ウエブサイトより)。
戦争のさなかに、交戦当事国の指導者が、外国の議会に直接(ネット経由だから厳密には『直接』ではないのだが)語りかけるという出来事そのものが、インターネットで世界が「ひとつの情報空間」に統合された新しい時代の戦争を象徴している。
(下)衆議院ウエブサイトで公開されている動画
前回本欄で書いたように、ウクライナ戦争ではロシア・ウクライナ双方が、国際世論に影響を与えて戦争を有利に展開しようとする「情報戦」を展開している。軍事力にそうした「情報戦」「心理戦」「サイバー戦」など「非破壊型威力」(Non Kinetic Warfare)を加えた新しい戦争の形態を「複合戦」(Hybrid War)と呼ぶことも指摘した。
ニュースになっている本人が姿を見せることほど効果の大きい「プロモーション」(広告宣伝)はない。ミュージシャンは、作品を公開するだけでなく、コンサートツアーをする。俳優は、映画が公開されたらお披露目試写会や記者会見をする。スポーツ選手は、試合に勝ったらヒーローインタビューに出る。
ゼレンスキーが世界の議会にオンライン演説をして回っているのは、いわば「プロモーション・ツアー」(オンラインだが)である。「娯楽(エンタテイメント)産業の広告宣伝の手法が、戦争の情報戦にまで拡大している」と私は理解している。
そんな歴史的な事件がせっかく眼前で起きているのだ。ゼレンスキー演説全文の書き起こしをしてみた。ネット上にも書き起こし文がいくつか公開されているので、参考にしてほしい。
演説全文を読んで私が注目したのは、ゼレンスキーが「言ったこと」よりむしろ「言わなかったこと」である。
(A)チェルノブイリやザポリージャ原発の名前を出して核被害を訴えたのに「フクシマ」の名前を出さなかった。
(B)ロシアが北方4島を占領して日本と領土紛争を起こしていることに言及しなかった。
(C)その遠因は、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連が中立条約を裏切り対日参戦したこと。が、それに言及しなかった。
(D)ロシアはウクライナと戦争をしている「敵」である。日本もロシアとの紛争を引きずっている(②③)。しかしゼレンスキーは「ロシアはウクライナ・日本共通の敵である」という表現をしなかった。
結論を先に言っておくと、この演説は「日本政府がゼレンスキーの口から言ってほしくないこと」を注意深く避けている。
ひとつずつ検討してみよう。
(A)チェルノブイリやザポリージャ原発の名前を出して核被害を訴えたのに「フクシマ」の名前を出さなかった。
演説から該当部分を抜き書きしてみる。
「チェルノブイリ」「ザポリ−ジャ」など自国の具体的な原発名を挙げているのに「福島第一原発」あるいは「フクシマ」という名前は一度も出てこない。日本人の聞き手の共感を呼びたいのなら「チェルノブイリやザポリージャ原発が破壊されたら、フクシマと同じ結果になる。日本の皆さんはその恐ろしさがわかるでしょう。ロシアを止めてください」と語るのが自然だ。フクシマと一言も言わないのはかえって不自然である。
なぜなのか、考えた。
ウクライナ政府はロシア軍の原発占拠を「核テロ」(Nuclear Terrorism)と非難した(2022年3月4日)。もしチェルノブイリ原発やザポリ−ニャ原発の原子炉が破壊され、放射性物質が噴き出したら、放射性物質汚染によってウクライナは壊滅的な被害を受ける。そんな趣旨だ。
3月4日のスピーチでゼレンスキーは「ヨーロッパの国々よ、目を覚ませ」とまで言っている。ヨーロッパ全体に放射性物質が風で運ばれ、汚染被害が拡大する可能性に触れている。
(余談:ゼレンスキーの国会演説で、当初ウクライナ政府が主張したようなロシア軍による『核テロ』=原子炉を破壊すること=は起きていないことが確認された)
●フクシマと核テロを同列にしてもらっては困る日本政府
しかし、私はこう考える。日本政府にすれば、核テロと福島第一原発事故を同等に論じる比喩は困るはずだ。
「福島第一原発事故の結果」イコール「ロシア軍がチェルノブイリ原発などで原子炉を破壊したときの結果」なのだと、日本国民にわからせてしまう。「原発事故」=「核テロ」なのだと理解してしまう。それもゼレンスキーという有名人の口からそう言われると「確かにそのとおりだ」と、真偽は別として、納得してしまう日本人は増えるだろう。
なぜそう言ってほしくないのか。こちらも考えてみた。
前提:政府は、福島第一原発事故後も「日本のエネルギー自給のためには原子力発電が必要」という判断を変えていない。
すると、日本政府としては、次のような内容を国民が認識することは好ましくない。
①福島第一原発事故はウクライナ戦争でいう「核テロ」と同じ内容・同じ規模(あるいはさらにひどい)の被害を残した。原発事故と核テロは結果において同じである。
②その原発には(特に稼働中の場合は)戦争時に敵国に乗っ取られるリスクがある。
③事故炉・健常炉を問わず、原子炉の中に猛毒の放射性物質がある。
③発生から11年を経て原発事故を忘れかけている日本国民がそのリスクを思い出す。原発は危険なものだと考え始める。再稼働に反対する。
④福島県産食品への忌避(政府がいう『風評被害』)が再燃する。
⑤原発事故を起こさないよう電力会社を監督・指導することが政府の責任だったのに、それに失敗した。
⑥政府は「原子力災害」という言葉を使って原発事故があたかも自然災害だったかのような認識誘導をしている(例:『東日本大震災・原子力災害伝承館』)。その認識が「あれは人災なのだ」と別の方向に行ってしまう。
つまり日本政府にはゼレンスキーが「フクシマ」という言葉を演説で使ってほしくないと思う動機が多数ある。
ここに至って、愚鈍な私もやっと思い至った。
ゼレンスキー演説の内容は、事前に日本側がチェックを入れていたのではないか(具体的には、国会議員経由のルートで非公式に日本政府もがチェックを入れたのではないか。立法府=国会で行われる演説に行政府=政府が介入することはできない法的建前になっているため)。そう勘ぐっていたら、次のような記事が朝日新聞に出た。
なるほど。「演説実施に関わった議員の一人」がウクライナ側に「真珠湾攻撃には触れないでほしい」と要望を伝えたそうだ。
先立つ3月16日、ゼレンスキーはロシアの侵攻を大日本帝国の真珠湾攻撃になぞらえる演説をオンラインで米議会に向かって行った。
「パール・ハーバー」はやめてくれ、と注文したなら「フクシマ」もやめてくれと注文していても、おかしくはない。私はそう考える。
(B)ロシアが北方4島を占領して日本と領土紛争を起こしていることに言及しなかった。
(C)その遠因は、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連が中立条約を裏切り対日参戦したこと。が、それに言及しなかった。
もしロシアと戦っているウクライナへの同情を呼びたいのなら、日本もロシアと領土紛争を抱えていることに言及しないのは不自然だ。
ロシアの「北方4島」(択捉、国後、歯舞、色丹島)専有は「不法占拠」だと日本政府は非難している。
その原因は、大日本帝国が停戦する6日前の1945年8月9日に、当時のソ連軍が日ソ中立条約を破って侵攻、8月15日にポツダム宣言受諾を公知したあとも、9月2日の連合軍との降伏文書の調印(東京湾上・ミズーリ号船上)まで進軍を止めなかったことだ(厳密には9月5日まで)。この26日間にソ連が占領した戦前の日本の領土で、現在も帰属をめぐって意見対立が続いているのが「北方領土」(ロシア側では南クリル諸島)である。
歴史的事実だけ見れば、日本もウクライナは「ロシア(ソ連)にその領土を侵害されている」という立場はまったく同じなのだが、ゼレンスキーは言及しなかった。
(D)ロシアはウクライナと戦争をしている「敵」である。日本もロシアとの領土紛争を第二次世界大戦以来77年間引きずっている(②③)。しかしゼレンスキーは「ロシアはウクライナ・日本共通の敵である」という表現をしなかった。
極端なシナリオでいえば、ゼレンスキーは「日本はロシアに宣戦布告してくれ」と言うことも可能である。言うのは自由だからだ。
しかしそこまでは注文しなかった。「経済制裁をしてくれ」と言っただけである。
「日本が海外での軍事力行使に憲法上の制約があることを前提にしている」文面である。さらに突っ込んでいえば「経済制裁以上の介入や影響力は日本には期待していません」という無言のメッセージともいえる。
「ロシアは日本の敵である」「ウクライナの敵である」「よってウクライナ日本共通の敵である」という「共闘」の呼びかけすら一切していない。つまり、ロシアから見て「日本もウクライナのように我が国を敵視している」と取られる内容が注意深く除かれている。実に実に丁寧に、日本政府の立場に配慮してあるのだ。
●ロシアに敵視されたくない日本
これはなぜかというと、ウクライナ戦争の趨勢にかかわらず、日本政府はロシアと懸案事項の解決を目指して、将来も外交交渉を続けていかなければならないからだ。
北方領土問題がその最優先事項(それに付随して平和条約締結=国際法上の戦争状態の終結=がある)であることは疑う余地がない。
すると、日本政府としてはロシアに「ウクライナ戦争のとき、ウクライナに味方してうちの国を敵扱いしたじゃないか」と思われたくない。結果がどうあれ、今後も交渉のテーブルに就いてほしい。「交渉もお断り」とまでロシアが態度を硬化させては、これまでの外交努力が水の泡である。何十年も交渉が逆戻りしてしまう。日本にとって、そこまでのリスクを犯すほどの国益はウクライナにはない。
●外交コミュニケーションでは「何を言わなかったのか」が重要
こうした外交における言葉のやりとりを分析するときには「何を言ったのか」ではなく「何を(言えたのに)言わなかったのか」に注目することが極めて重要だ。そこに無言のシグナリングがあるからだ。
日本の新聞テレビなど記者クラブ系マスコミに欠けているのは、この「何を言わなかったのか」の視点である。いつも「何を言ったのか」ばかりを見る。よってその分析は文面の表面を撫でる程度の浅薄な内容にとどまる。
今回のゼレンスキー演説の報道も「日本の支援に感謝」「ソフトでマイルド」と、各社ピント外れである。
●日本政府の非公式な演説内容への注文があった?
「ゼレンスキーが言わなかったこと」を丹念に掘り起こしてみると、ゼレンスキーやウクライナ政府だけの作業では、ここまで細かく「避けてほしいポイント」を迂回できたと考えるのは無理がある。
ウクライナ政府がそこまで詳細に日本側の事情を知っているとは思えない。ゼレンスキー大統領は3月23〜24日だけでもフランス、スエーデン、NATO、G7サミット、日本などへのオンライン演説で大忙しなのである。
これは私見に過ぎないが、私は次のように考える。
ウクライナ側の日本での代表はセルギー・ウォロディミロヴィチ・コルスンスキー駐日大使である。
日本側。国会での演説なのだから、公式の窓口は衆議院・参議院の事務局だ。また与党自民党には高木毅・国会対策委員長や日本・ウクライナ友好議員連盟(事務局長・盛山正仁衆院議員)といった「関係者」がいる。
日本の対露外交で「これまでの経緯・争点」や「避けてほしいポイント」をもっとも精緻に知っているのは日本政府外務省だ。しかし、前述のように「立法府=国会で行われる演説に行政府=政府が介入することはできない」のが法的建前である。すると外務省の「注文」「要望」はあくまで非公式な(個人的な)連絡の形だったはずだ。
ゼレンスキーの演説の内容について、日本側に打診があった時点から、在日ウクライナ大使館や本国のウクライナ外務省、日本側が公式・非公式に演説内容を打ち合わせた。少なくとも日本側から「避けてほしいポイント」は大使館か本国政府に伝えた。ゼレンスキーはそうやって日本側の意向を取り入れてが書かれた完成原稿を読んだ。そうでないと結果の説明がつかない。
そう考えると、不自由なものだと思う。せっかくインターネットで直接世界の人々に語りかけることができるのに「国会演説」という形にしたとたんに「政府」がゲートキーパーとして待ち構えている。つまり「主権国家」「国境」という壁がインターネットに介入し始める。現実の国際社会はまだ、インターネット空間ほど「グローバル」ではないのだ。
●日本の願望は打ち砕かれ「北方領土交渉打ち切り」
そんなことを考えていた3月22日、ロシア外務省が「北方領土の経済協力を巡る日本との対話を打ち切り、ビザなし交流についても制限する」と発表したニュースが流れてきた。「ウクライナ侵攻を巡り日本が制裁を科したこと」が理由だそうだ。
さらに追い打ちをかけるように同日、ディミトリ・メドベージェフ前ロシア首相が自身の「テレグラム」(メッセージアプリ)で「ロシアと日本が北方領土問題に関してコンセンサスを見つけることは決してなかった」「交渉は常に儀式的なものだった」と述べた。
「テレグラム」での発信はあくまでもメドベージェフ前首相の個人的発言ということになっているが、同氏は現在もロシア安全保障委員会の副議長である。好き勝手な個人的見解ではなく、事前に外務省や大統領府と打ち合わせたロシアの公式発言と考えるべきだ。同じ日に発信されているのも、そうなるようにプランを作ったからだ。
これはロシアの手ひどい報復である。
「北方領土は帰ってこないと日本側も承知していた」
「ゆえに交渉はしていたが、それは見せかけだけのものだった」
メドベージェフ前首相はそう言っているのだ。
つまり、こうだ。北方領土返還交渉は形だけのもので、どうせ返ってこないと日本政府もわかっていた。交渉はヤラセ、交渉しているフリだけだったと言っているのだ。
これでは日本政府は「交渉すれば返ってくる」と国民に説明していたのだから、ウソをついていたことになる。
第二次安倍政権(2012年〜2020年)が「最も精力的に取り組んだ」と自賛する外交問題のひとつが、北方領土と平和条約締結だった。安倍首相在任中のプーチン大統領との首脳会談は27回、訪露は11回である。
そこまでベタベタに呼びかけたのに、安倍総理は「ロシアは北方領土を返す気はない」とわかっていたことになる。あれは一体何だったんだ。マスコミや野党がそう追求してもおかしくない話である。
●ロシアの情報による報復
お気づきだろうか。これもロシアの情報戦である。たった2本のネット情報で、経済制裁に参加した日本にエゲツない報復をしたことになる。安倍晋三元総理と外務省の信用とメンツを粉々に粉砕してしまった。
しかも、よく計算してある。
メドベージェフという政治家職の口から「ちゃぶ台をひっくり返す」発言をさせている。ここまで「言ってはいけないこと」をバラしては、メドベージェフが将来北方領土返還交渉の担当者になることはもうない。日本側が信用しない。つまり「もうオレは担当しない」という了解の上で発言している。
一方、ロシア外務省という官僚職の口からは「将来も交渉は断る」とまでは言わない。あくまで「一時打ち切り」である。一方、外務省の見解は未来も両国関係を拘束するが、政治家は失職すれば発言は無効になる。
日本政府や安倍元総理は反論しないのだろうか。黙っているとメドベージェフの「交渉はヤラセだった」発言を認めたことになってしまうのだが。
(2022年3月25日、東京にて)
<注1>今回も戦争という緊急事態であることと、公共性が高い内容なので、無料で公開することにした。しかし、私はフリー記者であり、サラリーマンではない。記事をお金に変えて生活費と取材経費を賄っている。記事を無料で公開することはそうした「収入」をリスクにさらしての冒険である。もし読了後お金を払う価値があると思われたら、noteのサポート機能または
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銀座支店
普通
6200575
ウガヤヒロミチ
までカンパしてほしい。
<注2>今回もこれまでと同様に「だからといって、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を正当化する理由にはまったくならないが」という前提で書いた。こんなことは特記するのもバカバカしいほど当たり前のことなのだが、現実にそういうバカな誤解がTwitter上に出てきたので、封じるために断っておく。