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フクシマからの報告 2020年秋    商店街・モール・ボウリング場…     町がまるごと消えていく        3年で住民の帰還率6%        原発から8キロの浪江町 写真ルポ(上)

今回は2回に分けて、福島県浪江町の現状を写真を中心に報告したいと思う。

2011年3月11日の福島第一原発事故で、全住民が強制避難させられた原発20キロ圏内の市町村のひとつである。町の中心部から原発までは、南へ約8キロほどの距離だ。

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原発事故当時は2万1434人の住民がいた。強制避難の対象になった11市町村の中では、人口最多の大きな町だった。

避難が解除されたのは6年後の2017年3月。しかし、解除されたのはほんの一部で、今も町の面積の80%は立入禁止のままだ。2020年11月30日現在、2万0116人がなお避難中。つまり回復した人口は1308人、わずか6.1%にすぎない。

しかし「浪江町」の名前は、原発が立地する大熊町・双葉町や、前回本欄の村長インタビューで取り上げた飯舘村のように広く知られているとは言えない。その被害の甚大さは変わらないのに、である。

位置を言うと、浪江町は本欄で取り上げた「東日本大震災・原子力災害伝承館」がある双葉町の北隣だ。福島第一原発直近の町である。

町は東西に長く、西の端の阿武隈山中から太平洋岸まで、およそ35キロある。35キロというと、東京圏でいえばJR東京駅〜八王子駅間(40キロ)に近い。それぐらいの面積が、放射性物質による汚染で無人のままになっている有様を想像してみてほしい。

2011年3月15日に同原発2号機から噴き出した放射性物質の雲(プルーム)は、海からの風に乗って北西方向に流れた。運悪く、浪江町はちょうど全域がその通り道になった(この日のプルームは北隣の飯舘村も汚染した)。放射性物質は山にぶつかったところで雨や雪になって地面に落ちた。浪江町の中でも、山間部によりひどい汚染が残った。今も除染すら手づかずのまま立入禁止の高線量地帯である。

私は、町を東西に貫く国道114号(富岡街道)に沿って、海岸から出発して、山間部の町境界までクルマを走らせてみた。

回復しているのは町役場周辺の数キロ四方だけだった。海岸部には、今も津波で破壊された建物の残骸が放置され、食堂やカラオケが朽ちたまま時を止めている。

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かつて人々が集まったはずの商店街、ボウリング場やショッピングモールは8年以上放置されたあげくに解体され、更地になっていた。そうして文字通り街が消えていた。

反転して山間部に向かうと、クルマで走る約1時間、道路の両側に延々と民家や商店の廃墟が続いている。

正直言って、暗い気持ちになった。

9年半放置→建物が廃墟に→解体・更地→街そのものが消える。

こうして、町がまるごとひとつ消えていく。そんな光景が、浪江町だけでなく、双葉町、大熊町など原発周辺のあちこちで起きている。

原発事故が起こした破壊の凄まじさが、10年近くの歳月を経て姿を現しつつあった。

その現実を、過去9年半の間に撮りためた写真で比較しながら報告する。(上)は浪江町の海岸部〜中心部。(下)で山間部の様子を書く。

(上の写真2点は津波で破壊されたまま放置されている海岸部の棚塩集会所。窓から海岸線が見える。2020年10月5日、福島県浪江町で撮影)


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