フクシマからの報告 2020年秋 伝承館の中に本物の原発災害はない その外側で10年近く無人の双葉町 廃墟の街を歩いた写真ルポ
これから数回にわけて、福島第一原発事故直近の被災地の報告を書く。
まずは福島県双葉町から始めようと思う。理由は次の通りだ。
1)双葉町は福島第一原発が立地する地元である。
2)直近であるだけに、2011年3月11日に強制避難が始まり、翌12日午後3時半ごろ全町民7134人が町を離れた。それ以来、帰ってきた住民は2020年11月現在もゼロである。
3)町の面積のわずか4%だけが、2020年3月に強制避難を解除された。
4)そんな無人の街の片隅に、本欄で紹介した「東日本大震災・原子力被災伝承館」(以下、伝承館)が2020年9月20日に双葉町にオープンした(伝承館と同原発は直線距離で3キロほどしか離れていない)。
5)無人の街に、JR常磐線が2020年3月14日開通し、電車が一日約20本行き交っている。
伝承館のほんの数百メートル先には、津波で破壊された民家や工場の残骸が亡霊のように立っている(下の写真)。伝承館の外側にこそ、本物の原発災害の現実が広がっていた。
なんでこんなところに「伝承館」を作るのだろう。伝承館の外側にある本当の原発災害を見るべきではないのか。私は不思議だった。
ところがそんな「伝承館の外の現実」に関心や注意を払う来訪者はほとんどいなかった。その話は10月17日付本欄「フクシマからの報告・2020年秋 廃墟の街に出現した「伝承館」外に広がる現在進行形の原発災害に来館者は無関心」に詳しく書いた。
私は伝承館から足を伸ばして、双葉町を歩き回った。伝承館の外側にある本当の原発被災の現実を読者に報告したかったからだ。
伝承館やJR双葉駅周辺のほんの数平方キロを除けば、双葉町は今も無人である。町を少し歩いてみれば、その現実は否が応でも目に飛び込んでくる。
9年以上人がいない街に、地震で崩れた建物がそのまま放置され、草むしている。それは「廃墟の街」としかいいようがない。歩いても歩いても、廃墟ばかりが続いているのだ。
廃墟になった民家や商店はやがて取り壊され、更地になる。街全体が放射性物質を浴びたため、住むことができない。9年間で建物が荒れ果てた。そんな理由だ。
そうやって、かつて人々の暮らしがあった商店街や住宅街が次々に姿を消している。文字通り、町が消えていくのだ。
双葉町を含め、かつて強制避難の対象になった原発から半径20キロ圏の市町村を、国や県は「被災12市町村」と呼ぶ。
その中で、原発事故前の人口を回復した自治体はひとつもない。原発に近づくにつれ帰還した人口は少なくなり、数%にとどまっている。つまりほとんど人がいない無人の街が広がっている。その実態は2020年6月1日の本欄記事「フクシマからの報告・2020年春 『人が戻らない』再開3〜4年 事故前の人口を回復した市町村ゼロ 強制避難地域 帰還者の苦悩」に詳しく書いた。
これは主観にすぎないが、クルマで走ってみると、原発を中心にして南北約40キロ、東西約30キロはそんな廃墟の街が続く。それが現場に100回近く足を運んだ私の実感である。
そうやって現場を訪ねるたびに、私は原発事故の破壊力のすさまじさを思い知らされる。町ひとつがまるごと廃墟。そんな町村がいくつも続いている。
2020年8月から10月にかけて、数回かけて、そうした「被災12市町村」を改めて歩いてみた。撮影した写真は5000枚以上になった。これから数回にわけて、そこで目撃した現実を順次書いていく。
今回の双葉町の報告だけで、写真は170点以上ある。読むのに長く感じるかもしれない。しかし、現場を歩いた私の実感としては、これでも現実のほんの一部でしかない。
それほど、原発事故がもたらした破壊は巨大なのである。いくつもの町がまるごと廃墟になるというのは、それほどの破壊なのだ。
(冒頭の写真は雑草に埋もれた保育園の遊具。写真は特記のない限り2020年10月筆者撮影)
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