13部限定本
2020年、私は、ある古書店から中井英夫『とらんぷ譚』(平凡社)の識語入り献呈署名本を購入しました。「影の狩人たるべき―」という識語とともに松村禎三への宛書のある本です。そして、この『とらんぷ譚』には中井本人による手書き正誤表のコピーが挟まっていました。
松村禎三(1929年 - 2007年)は作曲家で東京藝術大学教授を務めた人物です。中井英夫の飲み仲間、麻雀仲間、中井のパートナーで作品社(第2次)社主の田中貞夫が経営するバー薔薇土の常連、軽井沢の流薔園や世田谷区羽根木の薔薇パーティの常客で、複数の写真からその様子を確認することができます。また、中井の告別式では友人代表として弔辞を述べています。(『眠れ、黒鳥ー追悼●中井英夫』(幻想文学出版局、1994年)5ページ)
「これは珍しいものを手に入れた」と思った私は、早速、書影と正誤表をツイッターで呟いたのですが、ほどなくして中井推しのフォロワーの方から、この『とらんぷ譚』が所謂「13部限定本」ではないかというご指摘をいただくとともに、「13部限定本」については、『『新青年』趣味第11号 特集中井英夫/森下雨村』(『新青年』研究会、2003)に村上裕徳氏が書かれていることも教えていただきました。村上氏は、中井の助手だった方です。
村上裕徳氏の説明
長くなりますが、同誌に掲載されている村上氏の記事から「13部限定本」の説明にあたる部分を引用させていただきます。
引用文中に出てくる「金沢」とは、中井の助手を務めていた金澤裕史氏のことで、「本多さん」とは中井の最期を看取った助手で著作権継承者の本多正一氏のことです。
入手したときには気付いていなかったのですが、改めてしっかり奥付を検めると確かに1979年12月の初版第1刷でした。
さて、「13部限定本」ではないかという指摘に驚き、喜びましたが、同時に疑問も湧いてきました。村上氏によると「13部限定本」は「薔薇パーティ」で配られたとありますが、薔薇の見ごろは春か秋です。村上氏も「初夏から夏にかけての時期に」開催されたとあります。ところがこの『とらんぷ譚』には「1979.12.」と署名した日付が入っています。クリスマス・パーティならともかく、薔薇パーティで配られたものとは思えませんでした。
越沼正氏の説明
さらに、調査を続けているうちに元K美術館館長の越沼正氏のブログ記事を見つけました。越沼氏は、加藤郁乎に連れられて「薔薇土」へ行き、そこで中井と遭遇し、意気投合して正体不明になるまで酔った中井を家まで送り届け、そのまま中井邸に泊まった縁で懇意になったという方です。そして、この記事にある『とらんぷ譚』1979年初版本の説明は、私の混乱に一層拍車をかけるものとなりました。