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愛のマウンドに立つ

私は南米ではサッカーのゴールキーパーで鍛えてきました。で、日本に戻ってきてからは何十年もピッチャーで投げました。

投げる者をピッチャーといいます。
常に、投げる者と打つ者の駆け引きがあるんです。
投げる者は、打つ者に対して、いかに嫌いな球を投げるかなんです。
全部、読み勝負なんです・・・相手はどういうボールが苦手なんだろう?
ストレート、まっすぐな球を嫌がるのか?
どういうカーブを投げれば苦手なボールとなるんだろう?
右に曲がるか、左に曲がるか、あるいは上から下に落ちるか?
もう投げる球の種類というのは、皆さんの想像もできぬほどの種類があります。
いかに打者に対して嫌がるボールを投げて、アウトにすることができるかが勝負なんです。

昨日の朝の明想だったか、あるいは今日の朝の明想だったか・・・
神は私に「常に愛のマウンドに立ちなさい」と言うんです。
その打者が、苦しんでいる者ならば、「愛のボールを投げ幸せにしてあげよ」。
で、落ち込んでる者が打者として向かっているならば、「希望を与えるボールを投げて幸せに導け」。
苦しむ者が立つならば、「愛のボールを投げ、幸せ、喜び、安らぎを与えよ」。

私は皆さんにこう言いました。
我々一人一人は、地球という愛を演ずる舞台に立たされていることを知ってほしい。
戦争で奪い合い、戦争で傷つけ合い、戦争で殺し合うために、我々は地球という舞台に立たされている者ではありません。
これは、皆さんが神・仏という、神仏という絶対なる神の法則なんです。

愛生きよ。

たったそれだけなんですよ。それ以上にそれ以下に、必要とするものは何もない。
だた愛で生きよ。

決して愛は女性・男性が、好き、嫌いを愛と説いているんではないですよ。愛は無限ですよ。
今、苦しむ者がいるならば、愛の球で楽にしてあげよう。で、落ち込む者がいるならば、愛の球を投げて希望を与えよう。
簡単に言うならば、まあたとえるならば、それを“愛”といいます。
相手の嫌がるボールを投げては愛ではないんです。
常に落ち込む者に希望を与え、苦しむ者に喜びを与え、悩む者に安らぎを。

縦横に織りなす糸は美しい布となります。
じゃあ、我々一人一人が縦横に織りなす愛は、すべてを幸せに、すべてを平和に。
このように我々は、地球というこの大舞台に立たされているのは、愛を演ずるためなんです。
決して分離・差別で、奪い合い、傷つけ合い、戦い、殺し合うための目的でこの地球という舞台に立たされていることではありません。

我々は、すべてのすべてあってあるものに、すべての兄弟姉妹に、嫌がるボールを投げるんではなく、本当に愛のボールを、慈悲のボールを投げられる一人一人でありますように。

相手を不愉快な思いをさせる、相手を嫌な思いをさせる、相手を傷つける、相手を苦しめる、相手を破壊するボールを投げるんではなく、愛のボールを、慈悲のボールを投げられる我々一人一人でありますように。


2024年8月27日光話『愛のマウンドに立つ』より


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