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2020年2月18日 光話『すべては思いの現れ』〜文字起こし全文〜
真理を学んでいて良かった
Tさんが言われたように「真理を学んでいて良かった」。
なぜそう言えるんだろう?
真理は我を自由ならしめん。
真理はすべてを自由ならしめん。
今、世界を混乱におとしいれている新型コロナウイルス。
真理を理解できぬ者はもう毎日が恐怖です。
中国の方々と出会ったら感染しはしないんだろうか。買い物に行ったら、あるいはどこそこに行ったら…と常に心配、不安、恐怖がつきまとっています。しかし、ともに学んでいる中国の方々、一人だって恐怖を感じている者はいないんです。
なぜならば、良きも悪きも具現化させているのは己の思いであることを知っているからなんです。
ひとりひとりは送信機であるとともに、受信機であることを知らねばなりません。
じゃあ、良き送信に何が受信されましょうか。
良き送信には良き受信を受けるんです。
じゃあ、恐怖とういうものを送信してみてください。
必ずやそれを引き寄せて恐怖を味わっていくことほかにないんです。
物質は勝手に動きません。物質は勝手に働きません。
今、私のポケットにはゼロ円ですけど、今、私が1000万円ここに置いたとします。その1000万円のお金は、勝手に飛び回って動くことがあるでしょうか。で、その1000万円というお金は、勝手に働くことがあるでしょうか。
その金を動かしているのは、その金を働かせているのは、すべて私の思いなんです。そのお金をどう動かし、どう働かせているのかは、すべて己次第なんです。
金のためならば人をも殺す。すべてひとりひとりの思いのあらわれなんです。
じゃあ、今のウイルスは勝手にそこに描かれたんでしょうか?
勝手にあらわれたんでしょうか?
いつも私、それを説きました。私は本質を「命」と言います。
すべてを存在至らしめているのは命そのもの。すべての存在は命。存在の本質は。
で、それを「神」と表現する方々もいます。
じゃあ、その本質を神と説くならば、神が勝手に人間を苦しめるとウイルスをつくり、ウイルスをばらまいたのか?
あるいは「あの人を殺せ」と武器を与えたんだろうか?
「あの国を攻めよ」と、戦う車を戦車、戦う飛行機、戦闘機、戦う船を戦艦として、神がこの地球上に下ろして、我々にその道具として与えたんだろうか?
皆さんの目には見えない、思いというその思い…「あの人を殺したい」。「あの国を攻め落としたい」。その思いが、カタチとしてさまざまな武器や道具をそこに具現化させていることを我々は知らねばなりません。
本来、人間が全一体として愛、分かち合って生きていたならば、一命一体・自他一体の境地で、すべてを愛し生きることができたならば、それを共存・共栄・共生といいます。
共存とは、共に存在し合う。
共栄とは、共に栄え合う。
共生とは、一つの命を喜び生きることを、共存・共栄・共生といいます。
じゃあ、人類が共存・共栄・共生、人類は一つ、社会は一つ、世界は一つ、宗教は一つ、宇宙は一つ、無限にして本質は一元であることを理解して生きていたならば、このようなウイルスで我々は振り回されることはないんです。
すべてまず思いは、皆さんの目には見えないエネルギーを振動させます。で、エネルギーが振動すること、思い、言葉でエネルギーを振動させることを、これを波動といいます。
エネルギーを振動させ、その波動が起こったら、必ずや物は具現化するんです。
あの人を殺したい、あの国を攻め落としたい。まず見えない思いがエネルギーを振動させるんです。これを波動といいます。
もう波動が動けば、必ずやここにカタチつくってしまうんです。
だから、神が勝手に戦い、殺し合えと、戦車、戦闘機、戦艦を、この地球上に下ろしたんではないことを知ってほしいんです。
すべてのすべては「思い」のあらわれなんです。
だから一瞬一瞬の思いを大切にしてほしいと願うんです。
思いで、言葉で、表現で、これは身口意といいます。
すべては命を与え生かされているんです。
ウイルスも命
先ほど、ある方から「ウイルスでも命ですか?」と言われたんです。
カタチつくられたこの宇宙、一点も空間なく命そのものなんです。
命のほかに何も存在しないんです。
じゃあ、皆さんは命のほかに何も存在しないのに、女性もいる男性もいる、中国人がいる日本人がいるというけれど、それは何を見て?
命の表現体を見て、皆さんは「いる」「ある」と言っているんです。
花々は命を与えられて美しく咲きほこっています。花々は絶対に嘘つかないですよ。もう花々は命を与えられれば、誰が見ていようが見ていまいが、精一杯美しく咲きほこっています。
「皆さんが見ているから私は精一杯開きます」、「誰も見ていないから私は半分開きます」なんて言わないですよ。花々は。命を与えられているかぎり、精一杯どこに置かれても精一杯美しく咲きほこっていますよ。
だから、花々において命は本質としてあらわれると私は言います。
動物において命は本性としてあらわれます。
で、鉱物をとおして命は親和力として表現されます。
じゃあ、万物の霊長といわれた人間をとおして命はどう働くのか。
三行為です。「思い」「言葉」「表現」。三行為であらわれます。
その三行為を正し生きる努力を、「修行」と書くんです。字は。
山や洞窟にこもって難行苦行・滝行・断食していれば、それは修行ではないんです。神社・仏閣・お寺・教会・宮にこもって良い声でお経を唱えても、それは修行ではないんです。
いる場所で、行く場所で、この一瞬一瞬の思いが、どう常に思いを、愛として慈悲として顕現しているのか。
それを正し生きることを、修行と書くんです。
だから修行は、難行苦行・滝行・断食とは書かないんです。山や洞窟にこもるとは書かないんです。
修行は「修正する行為」と書くんです。
じゃあ、何を修正しなければならないのか?
三行為です。思い、言葉、表現。
今の思いで、一言一言その言葉で、表現で、誰も傷つけることはないか。
誰を苦しめることもないか。
誰も不愉快な思いをさせることはないか。
それを徹底して正し生きる努力を、修行と書くんです。
だからちゃんと日本の漢字、中国の漢字には、完璧にその意味を示されているのにもかかわらず、なぜ人間は山や洞窟にこもっていれば修行。あるいは難行苦行・滝行・断食していれば修行。お寺や神社・仏閣にこもって良い声でお経を唱えていれば修行。なぜ勘違いするんだろう、と思うんです。
漢字は書くけど、漢字は読むけど、全くその意味を知っていないではないでしょうか。
私は宗教を学んだことはないですよ。今生、何の宗教も学んでいません。
しかし、どの宗教でも、はじめに教え説いた方々は、たとえばキリスト教ならば、教会を奉って盲信・狂信・偶像崇拝を教え説いているんではないんです。
あるいは仏教や他の宗教でもいい。神社・仏閣を、あるいは神殿や宮殿を奉って盲信・狂信・偶像崇拝しろとは説いていないんです。
宗教というのは、その法則を正しく美しく生きよ、と説いているのが宗教なんです。
盲信・狂信・偶像崇拝を教え説いているんではないんです。
だから日本の言葉では「座して神を拝むことなかれ」。
幸せをつかみたいならば、自らの努力で、自らの手で勝ち取ることであって、座して神を拝んで幸せ、とは説いていないんです。
ひとりひとりが正しい努力でつかみ取ることが幸せであり、喜びであり、至福であることを知らねばなりません。
座して神を拝むことなかれ。盲信・狂信・偶像崇拝することなかれ。
盲信とは盲目の信仰と書くんです。
盲目の信仰であるがゆえに、真実の神を見失い、真実の仏を見失い、真実の本質を見失っているんです。
宗教とは動かぬ仏像を奉って、何をください、ください、と物乞いみたいに祈る対象物ではないんです。
私でありなさい 私を生きよ
皆さんもそのとおり。私も含めて。
まあ、ひとりひとりの転生は違うでしょうけど。
我々は何百、何千、何万回という転生を繰り返して今があります。
で、その転生をここまで歩んできた目的は「本当の我を知る」という目的なんです。
自分とは何者なんだろう?
真実の我をはっきり自覚するために、ここまで転生を我々は歩んできたんです。
私も含めてあなた方も同じです。
私も今生も、もう物心ついたときから生まれながらに私は本質を求めてきました。
神・仏と聞かされれば、神と仏がどう違うんだろう?
神が上、仏が下、仏が上、神が下、といえば、神・仏にどう違いがあるんだろう?物心ついた時から、それを追求してきています。
今生も、明想というその手段・方法を使えるようになって、私がそれを追求したとき、もう神に至れば、本質に目覚めれば、そのメッセージたるや長々と下りてくるものだと私は思っていたんです。
長々とメッセージが下りてくるどころか、ただ一言、二言ですよ。
「私でありなさい」。
神が「私」と説いているのは「命」なんです。
「命でありなさい」だったんです。
命が神仏なんです。
つまり、神でありなさい。仏でありなさい。命でありなさい。本質でありなさい。これが、私でありなさい、なんです。ただ言葉の違い。
だから本質は、キリストと説いても本質は何も変わりません。
仏陀と説いても本質は変わりません。
私が「命」と説いても、「神」と説いても、「仏」と説いても、本質は過去に今に未来永劫に永遠に変わりません。
本質は本質なんです。
それも理解できずして、あれが神だ、これが仏だ、ゆえに対立して宗教で戦い殺し合うこと。
本質は命として一つしかないんです。
神と説いて、仏と説いて、命と説いて、何が違いましょうか。
何も変わらないんです。
だから私が神をはっきり自覚、自覚とは自らが神であることに目覚めることを自覚といいます。それを自覚したとき、ただ一言、二言なんです。
「私でありなさい」。
「一瞬一瞬、常に常に私でありなさい」なんです。
「私でありなさい」とは「命でありなさい」なんです。
で、二言目、「私を生きよ」なんです。
ということは、「命を生きよ」なんです。
私が命であるならば、あなた方も命なんです。
我、命なり。あなた方も命なり。
我の命、あなた方の命は、全体の命。
全体の命こそが、すべての存在の本質。
じゃあ、それが理解できるならば、「ウイルスも命なんだろうか?」なんて質問は出てこないですよ。
私の命と、今、世界を騒がすウイルスの命、何も変わらないです。本質にしては。
じゃあ、何が違うのか?
あらわれ、その表現が違うんです。
それは、人間の間違った想念によって具現化させられて、間違った表現をしているんです。
じゃあ、人類が共存・共栄・共生、絶対愛として生きることができるならば、そのウイルスでも愛を表現するウイルスに変わりますよ。
だから、この世というのは、すべて万物の霊長といわれた人間の想念のあらわれにしかすぎないんです。
皆さん、ひとりひとりでもみんな違うではないでしょうか。
あなた方の想念によってあなた方の肉体もそうだし、あるいは家庭もそうだし、すべてつくりあげているのはあなた方の思い・想念次第ではないでしょうか。
もう、ウイルス、ウイルスを恐怖して、どこそこに行けば感染はしないだろうか? もう恐怖は恐怖を引き寄せますよ。
すべて思いによって、この現象の世界はカタチつくられているんです。
だから、本質である真我が平和をつくれば、偽我で生きている愚か者は、戦争をつくって戦い、殺し合うんです。
で、真我なる神は健康を与えれば、愚か者はさまざまな病いをつくって自らを苦しめるんです。
だから、誰彼のせいで私は苦しんでいます、はいないですよ。
すべて己自身が蒔いた種の結果を刈り取っていることを知らねばなりません。幼稚園生でもわかりますよ。
山や洞窟にこもっていては成長もない
昨日か一昨日の東京・無限セミナーで、中国からきたY君の質問。
近くにレストランがあると言います。そのレストランが燃えたと言います。
「なぜ燃えたんだろう?」という質問でした。
で、「Y君は、あなたはどう思うのか?」と。
答えてくれなかったから、私も答えなかったんです。
「はい、Y君に考えてほしい、それは宿題ですよ」と言いました。
答えを出したんだろうか?
すべて種蒔いた結果のあらわれなんです。
種を蒔かぬならば、発芽することはないんです。
種を蒔いて、その蒔いた種は、良きも悪きもあなた方の縁に触れたときに、全部発芽してしまうんです。
私、もうSさんが大嫌いです。その種を蒔いて、私はその種を持っています。
しかし、Sさんと会わなければ私、発芽しないですよ。だから安らぎでいられるんです。
しかし嫌いなSさんと会えば、もう肥料を与えられて、水を与えられたんだから、発芽しますよ。嫌いが出てきます。
これが皆さんの縁なんです。
だからこそ、山や洞窟にこもっていては我々は成長もなければ輝けないんです。
今、生かされているこの社会で我々は、どんな方とも触れたひとりひとりと「どうその人を思い、感じみることができるか」が学びなんです。
同じ本質が、「我、命なり、あなた方も命なり」。その同じ本質がみえたとき、皆さんこう言うんです
すべては美しき天使たち。無限に飛び立つ美しき天使たち。
それは、すべてのすべてあってあるものが本質であることを説いているんです。
私の命、あなた方の命はありません。
わが命は本質そのものの命、全く同一なんです。
私の命、今、世界を混乱させているウイルスの命も、何の命も変わりはないんです。
しかし、同じ命であるにもかかわらず、それは人間の間違った悪想念によってつくり上げられたウイルスゆえに世を混乱させているんです。
しかし、それが理解ができるならば、皆さんはその影響を受ける必要もないということなんです。
それがもう、あたかもすべてそう受け取らねばならぬ、というならば、もう世界中の人間、ウイルスだらけですよ、今も、感染させられて。
今日の一瞬一瞬、何を送信するか
だから宗教というのは、宇宙の法則そのものであることを知ってほしいんです。
我々は法則のとおり生きているならば、どこにいたって心配も不安も恐怖もないことを知ります。
我々は、法則を無視して生きたときに間違ったものを引き寄せているんです。
誰彼のせいで苦しみ悩む者はいません。
すべて自ら蒔いた種を刈り取っているだけにしかすぎません。
私が送ったにもかかわらず、それが誰にはね返ってきましょうか?
送った本人に受信は受けるんです。
送信と受信です。
今日の一瞬一瞬、皆さんは思いをとおして、言葉をとおして、何を送信するかなんです。
心配を送信すれば何を引き寄せるのか?
恐怖を送信すれば何を引き寄せるのか?
それ以上、それ以下は引き寄せないんです。
全く心配したならば心配、恐怖したならば恐怖。
それが送信・受信なんです。
まさかリンゴの種を蒔いて、収穫はミカンではないではないでしょうか。
ミカンの種を蒔いて、収穫はリンゴであるはずはないではないでしょうか。
じゃあ、誰が蒔いた種の結果を刈り取っているのか?
すべて自分なんです。
だから、今日も愛で目覚め、愛で事を為し、愛で今日の一日を終えていく者。
「愛するは愛されるよりも美しく すべてを幸せにする」と法則のとおり生きている者には、どこにいたって心配も不安も恐怖もないんです。
生まれた者には死が訪れる。
はじめあるものには、必ず終わりがくる。
つくられしものには、必ず破壊がくる。
だから、その今のウイルスでも、カタチつくられてここに顕微鏡で見ることのできるあらわれ。あらわれしものは必ず終わりがくるんです。
あらわれたその結果に永遠に続くものはないんです。
この世界は「創造」と「保存」と「破壊」。三位一体で繰り返しています。
赤ちゃんが生まれることを創造。
しばらく生きていることを保存。
いつかその赤ちゃんはこの肉体から去ることを破壊。
この宇宙であらわれし結果に永遠なるものがあるでしょうか?
もう我々は、この肉体という物質は、墓場に近いんですよ。いつかは必ず脱ぎますよ。オギャーと生まれた瞬間から、この物質、肉体は。
命は永遠ですよ。
命は歳取ることもない。命は死ぬこともない。命は病み苦しむこともない。
これを久遠にして常在。不滅の実在といいます。
久遠とは、永遠のあなた方。命が理解できるならば。
「我、命なり」の境地ならば。
久遠常在、不滅の実在。
久遠とは、永遠のあなた方。
常在とは、常にあるあなた方。
不滅とは、一度だって破壊されたことのないあなた方。
実在とは、実際にあるあなた方。
しかし、本質を見失って「我、肉体なり」という錯覚で生きてみてください。
肉体は、物質は、この現象世界の影響を受ける肉体ですから「ああ、どこそこに行けばウイルスに感染して死にはしないか?」。もう心配、不安、恐怖から免れないですよ。
肉体という現象我は、ウイルスに感染しなくても必ずやいつかは脱ぎゆくものなんです。
これを、肉体含めてこの現象の世界は無常世界、というんです。
永遠に今の衣装をまとっている人間は世界に一人もいません。過去に今に未来永劫に。
生まれた者には死が訪れ、はじめあるものに終わりがあり、つくられしものには必ず破壊がくるんです。
この世界は、創造・保存・破壊の繰り返し。
お母さんのお腹から赤ちゃんが生まれてくることを創造。
しばらくその肉体をもって生きていることを保存。
いつかこの肉体衣装を脱ぐことを破壊。
海から波が立ち上がることを創造。
しばらくその高さを維持していることを保存。
いつかその波は砕け、その大海に沈み一体となることを、これを破壊。
だからこの世界は、創造・保存・破壊、三位一体の繰り返し。
それにインドでは、創造に創造の神、保存に保存の神、破壊に破壊の神、三位一体でこの世界を説いたんです。
創造の神をブラフマン。保存の神をビシュヌ神。破壊の神をシバ神。
だから、全世界の人間が今のウイルスをどんなに恐怖していても、恐れても、必ずや終わりがくるんです。
永遠にそのウイルスは暴れまくることは不可能です。
つくられしものには必ず破壊がくるんです。
生まれた者には必ず死がくるんです。
はじめあるものには必ず終わりがくるんです。
じゃあ、あらわれて必ずや消えゆくそのウイルスは、我々何も恐れることもない、怖がることもないではないでしょうか。
何が怖いんだろう?
我々は、何を恐れねばならないんだろう?
そのようなウイルスをつくり上げている、破壊的な己の想念を怖がらねばなりません。
だから、私はっきり言えるんですよ。
私が今、たとえばこの現象的にあらわれているウイルスを背負って、私が咳き込んでいるとします。咳をしているとします。もうSさんの前に向かって、Sさんの前に来て、「ゴホン、ゴホン」。
たとえば、Sさんが、「私に近寄るな。私にウイルスをまき散らすな。私を感染させるな」と言います。
私は言えるんです。
「ああ、そうですか。あなたはあなた自身の内に潜んでいるウイルスはどう思うの?」と。
それは、あの人ゆるせない、あの人嫌い、あの人憎い、あの人愛せない。
その分離という、うらみ、怒り、嫉妬、それほど恐ろしいウイルスはないんです。なぜ?
このうらみ、怒り、嫉妬という見えないウイルスが、顕微鏡で見るほどのカタチをつくってしまっているんです。
だから「あなたは私の咳は恐れるけど、あなた自身の中に潜んでいるうらみ、怒り、嫉妬というウイルスはどうなの?」と私は言えますよ。
だから、本当の真理を知っている者は、もう恐れるものは何もないですよ。
本当にそれは正しい状態のなかにそのウイルスがあらわれたんだろうか?
今、世界で起こる天変地異・天候異変、そのようなウイルスやさまざまな事件・事故は、すべて万物の霊長たる人間の正しく生きることのできなかった結果。で、愛の法則を無視して生きた結果なんです。
すべてを思いやり、すべてをいたわり、愛 生きることができるならば、そのようなウイルスなんて、そこにあらわれる必要さえもないんです。
ただ、あらわれたウイルスを世界の人間は嫌っているでしょうけど、我々はそれをとおして学ばねばならないんです。
全一体というその境地を我々は学ばねばなりません。
そのウィルスは我々に、本来の我に目覚めよ、を教えられているんです。
ひとりひとりが本来の我に目覚めれば、自ずと、共存・共栄・共生、全一体で生きます。
全一体で生きるならば、そのようなウイルスなんてあらわれる必要さえもないんです。
だから、そのウイルスは皆さんに説いていますよ。
自らに目覚めよ。
自らに目覚めよ。
自らの心を開きなさい。
小さな自分を捨てなさい。
神の偉大なる光、本質に目覚めよ。
すべては我として生きよ、を教えられていますよ。
だから、あらわれしものを、ただただ嫌って、嫌って、嫌ってではなりません。
そのあらわれしものが何を我々に訴えているんだろう?
何を促しているんだろう?
それを読み取れる者となってほしいんです。
今回あらわれた新型コロナウイルスというのは、いまだかつて人類が体験したこともないというウイルスで、対処のしようがないというんです。あの医学も科学も。
しかしそれだけでは済まないです。
それでも人類の目覚めがなければ、まだお互いにお互いを傷つけ合って生きることならば、もっと力をもったものがあらわれてきますよ。
これは私、断言して言い切りますよ。
ただただそのようなウイルスがあらわれているんではないんです。
無智という分離感で、同じ兄弟姉妹同士で戦い、殺し合うというその波動のなかで、そういうものがそこに具現化してくるんです。
錯覚から覚めよ。
幻覚から覚めよ。
夢から覚めよ。
それは、すべてが我であることに目覚めよ、ということなんです。
我はすべてであり、すべて我なり。
我は全体であり、全体、我なり。
私が命として、私なる命は誰と分離していましょうか?
皆さんが、今、世界の人間が嫌っているウイルスの命と、私の命も、あなた方の命も、その一つなる命なんです。ただあらわれ方が違っているんです。
人間の間違った想念でそれがあらわれているんです。
正しくない法則を無視した生き方、結果が、そのようなものを生み出しているんです。
だから本質が、あなた方に与えたその遺伝は、常に正しく美しい創造をしてもらいたいって、我々はここに命を与え生かされているんです。
このような破壊的なウイルスをつくり上げよ、と我々は生かされていないんです。
慈悲の「慈」の心とは、万象万物、すべての幸せ、すべての喜び、すべての幸福を願う心を慈悲の慈の心。
慈悲の「悲」の心とは、万象万物、すべての悩み、苦しみ、悲しみが除かれますように。
私である以外に何ものも存在しません。
それは、皆さんが命をはっきり自覚したときです。
我、命なり。あなた方も命なり。
我の命、あなた方の命は、全体の命。
全体の命こそがすべての存在の本質であることを知ります。
私であるあなた方はいても、あなた方である私はいても、分離・差別は一点もありません。
どこの国に生まれ育っても、その本質は一命一体にして同じなんです。
ただ、大国・中国で生まれて中国人。日本という国で生まれて日本人と差別しているでしょうけど、どこで生まれ、どこで育たって、その本質は一命一体・自他一体なんです。
一つの命、一つの体。一命一体。
じゃあ、中国人の体を組み立てている質量と、日本人の体を組み立てている質量、男性という衣装を組み立てた質量、女性という衣装を組み立てた質量、それに一点の変りもないではないでしょうか。
この宇宙は、一命一体・自他一体・全一体ほかに何も存在しません。
だから、あなた方である私、私であるあなた方ほかに存在しないゆえに、
あなた方の喜びはわが喜び、あなた方の苦しみはわが苦しみ、と言えるんです。
あなた方の喜び、わが喜び。
あなた方の幸せ、わが幸せ。
あなた方の苦しみ、わが苦しみ。
一体であるならば。
今、分かち合うことを学ぶ
それと今の状態はまだ序の口と、私は言いますよ。
これから、この地球はアセンションという黄金時代へ向かっています。
このアセンション、黄金時代を迎えるまでは、一点の汚れ、一点の曇り(を)残してアセンションはできぬゆえに、もう次から次へと我々が気づくまで、さまざまな現象があらわれてきます。
今もう、みれる者が恐れているのは、次にくるのは食糧難を恐れていますよ。
これ、私が南米のジャングルの生活を終えて沖縄に戻ってきたときに、即、それいちばん最初に神に言われた言葉。
本質から、あるいは全体から、分離して生きている人間を、これ利己主義といいます。自分さえ良ければいい。自分の家庭さえ守っていればいい。自分の国さえ豊かであればいい。それを利己主義といいます。
「あなた方が利己主義で生きるならば、パンひとかけらのために親子が殺し合うときがくるだろう」と言われています。
早く利己主義の自分から非利己主義、それは全体意識という意味です。
全体意識に目覚め生きよ。非利己主義。
その後に私が本質の世界からこの地球を眺めたときに、どの家庭も食事を作るためにガステーブルやコンロに鍋をのせて食事を準備しようとするけど、どの家庭のその鍋をのぞいても空っぽなんです。
そういう現象は必ずきますよ。
だから今、分かち合うということを我々は学んでいなければなりません。
自分さえ良ければいいと言うけど、この「自分」とは何者なんだろう?
自分とは、全体の自分はいても、全体から分離した自分なんていないんです。
だから、どの家庭でも、食事を作るで、鍋に火をかけてガステーブルやコンロに置いているけど、私がその実相という本質の世界から、一つ一つの家庭をのぞいたときに、どこの家庭の鍋にも何の一点も入っていないんです。何も食材なんて入っていないんです。空っぽなんです。
それは何を意味していましょうか?
このような時は必ずくるということを観せられているんです。
パンひとかけらならばまだいいですよ。
まず教えられたのは、パンひとかけらのために親子が殺し合うときがくるだろう。
ある国は、今日朝食べたから昼間は要らない、ゴミ箱に捨てるほどの贅沢で生きています。ある国では、パンひとかけら、パンの耳さえも食べられない方々もいます。
はたして、それがバランスだといえましょうか?
これが調和だといえましょうか?
だから、必ずやそれは刈り取りをさせられます。
これは人間という愚か者が崩したアンバランスゆえに、完全なる調和、バランスに至るまでそういう現象は続きますよ。
だから、今年2020年のスタートのあの沖縄でのセミナーでは、今までは、まあ無限から分離した皆さんが錯覚している個人ですよ。個人的な面、あるいは家庭的な面、小さな島の出来事のように思ったでしょうけど、これからは世界を世界を巻き込んでのあらわれと私は説きました。
2020年、もう、すぐ1月に、もう少しでもどこか感情に燃えていたならば、世界を巻き込んでの戦争だったんです。世界第三次大戦だったんです。それもまだ完璧には収まってないですよ。いつもいつも火種はそこにありますよ。
それにプラス、今度は全世界を巻き込んでのウイルス。
人間が全一体に目覚め生きるまで、次から次へと皆さんが想像もできぬ現象は続きます。
美しく磨き上げることができぬかぎり、この地球は黄金時代を迎えることができないんです。
だからひとりひとりに、目覚めよ、目覚めよ、を常に常にこの大自然は促しているんです。
目覚めよ、真実の我に目覚めよ。
目覚めよ、全一体として共存・共栄・共生に生きよ。
我々はあらわれしもののどうこうよりも、二度と再びそういうウイルスをつくり上げないひとりひとりであってほしい。
愛というのは完全意識であって、決して女性・男性の愛を説いているんではないんです。
すべてをいたわり、思いやり、共存・共栄・共生で生きること。
完全意識そのものが愛なんです。
我々はその物質をここに具現化させるならば、美しいもの、正しきものを我々は具現化させていきたいと思います。
今日も、魂高き多くの方々が参加してくださったことに、心から私は嬉しく思います。で、感謝いたします。
10分くらいの明想をとおして、今、全世界でそのウイルスに感染しはしないか、常に心配、恐怖に怯え生きている兄弟姉妹へ、この図面を描く設計室・アジュナのほうに意識を集中しながら、全世界の兄弟姉妹へ愛の波動、完全なる波動が、この苦しむ兄弟姉妹を包めますようにという思いで明想してみてください。