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天の横画、上が長いか?下が長いか?

植戸万典(うえと かずのり)です。気づけば夏もあっという間に通り過ぎて、暑いけれどその端々からは秋の予感をすぐそこに……まだ感じはしないか。

疫病はどうなるのか、五輪はどうなるのか、次の首相はどうなるのか、ウンヌンカンヌン。
今年みたいに特殊な世の中でも相変わらず社会は日々ニュースに溢れていて、さまざまな立場の人が次々と世間に新しい問いを投げかけている。それらはとても大切な問題なことなのかもしれないけれど、正直、気疲れもしてしまおう。
少し目線を変えて、それほど社会へ影響を与えもしないような他愛もないことを、じっくりゆっくり考える余白も必要なのかもしれない。

少し前にもこんなことを問われた。
「天」の横画は、正しくは上下どちらが長いのか。

それは趣旨さえ計りかねる問いだったが、聞けば、要は奉斎する神宮大麻の「天照皇大神宮」を見ての疑問だったらしい。
なるほど確かに、神宮大麻の「天」は下の画が長い。しかし、今まさに画面上で目にしている「天」の字は、恐らく上の方が長いだろう(明朝体設定にしているので)。質問者はその差異に疑問を抱いたようだ。

似たことは昨年もあった。すっかり馴染んだ「令和」だが、その「令」の最終画は縦と斜め、どちらが正式か話題になっていた。

髭題目のように形に意味があるならともかく、漢字としてなら「天」も「令」も明白だ。

どっちでも良い。

こう書くと投げ遣りに見えるが、文化庁の指針でもまさに「天」や「令」を例示して、字には多様な書き方のあることを解説している。異体字ですらない単なるデザイン差で、こうした部分に殊更拘泥する必要もないのが漢字という文化なのだ。

文字に限らず、唯一絶対の正解が求められがちな世相だ。神社参拝すら「正しい作法」が物知り顔で論じられる。関係者の一人としては、その場その時その人にとって望ましい所作があるのだと説くのだけれど、参道の歩く位置だの手水の柄杓の執り方だの鈴を鳴らすタイミングだの、万能の正しさがあると信じて疑わない人にはそれでは満足戴けないことが多い。力不足を思い知る。

本来の神道とか正しい日本語とか、世間は随分簡単に云ってくれる。
斯かる様子は歴史界隈にも珍しくない。逆説だったり通史の決定版だったり、人口に膾炙する歴史通俗本は今も書店に種々並ぶけれど、どれも彼らにとっての正しさを主張しようとするものだ。
娯楽としてならそれで正しいのだろう。しかし史学は実証主義の学問。必ずしも史料から全容が知れるわけではないし、回答を保留にすることも学問的な良心だ。

まして歴史像は人心も左右する。目的の先に立つ歴史認識は自戒を込めて気をつけたいし、それは史学に限ったことでもないだろう。本能寺の変の黒幕にせよ、どこかの政治家の醜聞にせよ、管見を通した憶測ですべてを理解しようとすれば「陰謀論」の陥穽に嵌る。

何かのためにする歴史学は正しくない、しかし何のためにもならない歴史学は意味がない。
これは「歴史学とは何か」という史学徒なら必ず通る問いに対する学生時代からの座右の銘だ。「ファクト」が叫ばれるこの時代だからこそ、史学の有用性を感じさせてもくれる。

正しい答えなんて、そうそう簡単に解明できるようなら学究も困りはしない。

蛇足だが、神宮大麻の初穂料が今年から改定となった。25年ぶりの値上げだという。
ただ、神宮大麻の初穂料は以前からも場所によって異なることが見受けられる。そもそも初穂料に定額も何もなかろうが、何が「正しい」のか、こちらは素朴な疑問だ。

#コラム #私の仕事 #ライター #史学徒

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植戸 万典
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