客観視できているという主観の話
昨今の社会人は、兎にも角にも客観視できないといけないらしい。もちろん、大人として必要なことではある。
「私は自分自身を客観的に見ることができるんです、あなたとは違うんです」と言った政治家がいた。私は彼に会ったことはないし、話したこともない。だから、私には彼が自己を客観視できる人間かどうかは知らない。判断できる立場にない。
だが「自分は客観視できる」というのは、主観なのではないかと思う。
人は何かを見る時に、どうしても自分の物差しを使わざるを得ない。自分の物差しで他人を測ろうとすると非難される。絶対視してはいけない。
だが、自分の目で耳で肌で情報を拾い、脳に集めて分析するのだから、主観を完全に排除することなどできるわけがない。主観を完全に排除することを求めるくらいなら、AIに全て判断させるより他ない。
客観と主観をきっちり分けること自体が、まず難易度がかなり高い。メタ認知の達人でもそう簡単にできないのではないかと思う。
脳内でこれは主観、これは客観と逐一分けているわけにもいかない。人間の脳をそんなことにばかり使うのはあまりにも勿体ない。そもそも、客観と主観を判断するのも、主観だ。
つまり、私は「自分を客観視できる」と言う人間の客観性を信用していないのだ。
私は類型界隈と呼ばれるところにいる。mbtiを例にとる。ユングの思想を元にキャサリンとイザベルと言う母子が20年以上かけて多数の心理学者を巻き込み完成したのがmbtiだ。
メソッドとして我々にもわかりやすく提供されているが、心理学者でもない素人が数冊書籍を読み、セッションを受けた所で完全に理解できるはずがない。
mbtiを日本に持ち込んだ園田氏も15年も指導と訓練を積んでいる。もし私がmbtiのトレーナーの資格を取得したとしても、完全な理解に到達できるのだろうか。おそらくできないだろう。
化学や物理と違い、目に見えない心理を扱っている以上、理論の運用にはどうしても主観が入る。プロのトレーナーなら主観を排除する訓練も受けるだろうが、プロだからと言って主観を完全に排除できるわけでもない。
mbti以外でも、主観や解釈が入り込みそうなポイントを抑えた上で、慎重に判断する程度が人間の限界だと、私は思う。
「私は、人の話を聞くのが得意。私が話を聞くとみんな楽しそうに話してくれる。みんなの反応フィードバックできてるから客観でしょ?」
と思ったところで、「みんなが楽しんでいる」と判断しているのは、主観だ。大人は巧妙に気を使うから、リアクション悪すぎても楽しそうに話してくれるのだ。
なぜ、私がここまで「自分を客観視できる」と言うに厳しいかと言えば、私がそう思いがちだからだ。
人に何かを客観的に話す必要がある場合、頭の中で必死に考えて言葉を選ぶが、話し終えて思い返すと主観のオンパレードだ。
客観が具、主観が白米のおにぎりのようになる。毎度反省をするのだが、あまり客観的に話す技術や客観と主観を分ける技術は向上していない。
悲観しているわけではないが。
私は、あまり意識高そうな本は読まないのだが、ネットではたまに客観視するコツなどを検索する。
バイアスの理解を深める、論理的思考を高める、などなど書いてあるが、「バイアスの理解が正しいかどうか、論理的思考ができているかどうか、誰が判断するのだろう」と思って冷めてしまう。
「自分は論理的思考ができる」と思う人は、本当に論理的なのだろうか。
この問題は、一生涯に渡って修行を積む価値はありそうに思える。