世の中はどうなっていくかって話
せっかくなのでINTJらしい記事を書いてみたい。
未来とか抽象とかそんなやつがINTJらしいということになっているようだ。
この世の中が10年後100年後1000年後、どうなっているのか。未来を予測というよりは、空想だと思ってお付き合いください。
私が子供の頃、世の中はグローバル化で盛り上がっていたように思う。これからは英語が喋れて当たり前になる。子どもには英会話を。テレビでは駅前留学のCMがよく流れていた。
それから時は流れた。英語が喋れて当たり前の日本になったとは、私には思えない。私は喋れないが、特に困らずに生きている。
そもそも、グローバル化とはいうが、明治維新だってある種グローバル化だ。西洋のいいものを取り入れて先進国に追いつこうとしていた。情報や技術を海を飛び越えて共有しようとしたのだから、立派にグローバル化を目指していた。
そして、そんなことは、古代からやっていた。大陸に貿易船を送り、情報や技術を共有していたのだ。やってることは大差ない。
グローバル化という言葉は、古代からやっていたことに新しい横文字の名前をつけただけの話だ。繋がれる世界の広さや速度が変わっただけだ。
吾輩は猫であるを読んだことはあるだろうか。青空文庫で無料で読めるのでぜひ読んでほしい。
終盤の方でくしゃみ先生が友人達と、今後の世の中や愛や結婚について話すシーンがある。現代の我々が話していたとしても全く違和感のない会話だ。文言は古いが、内容の話しだ。100年以上前の小説のワンシーンが、現代でも無理なく再現できるのだ。
100年前と現代で似たようなことを話しているなら、100年前の100年前も似たようなものだろうし、今の100年先も似たようなものだろう。
人間の本質というものは、変わらないのだ。人間は永遠に社会のあり方や愛に悩み続けるし、理想を追い求めるし、理想と現実の間に板挟みになるのだ。
少数派は多数派に挑み続けるし、わかってほしいと苦悩を続ける。
では、何が変わるのか。
価値観や倫理観が変わる、とよく言われる。確かに江戸時代の価値観で現代を生きたら大変なことになる。今はお殿様に忠誠を誓ったりはしない。今でも美談はみんなの大好物だが、流石に忠臣蔵が現代で起きたら美談にはならないだろう。
だが、忠実であることや、誰かに尽くそうと思う価値観は今でも残っているし、それが否定されているわけでもない。事実、討ち入りとは違うが、ウィルスミスのビンタは賞賛の声もあった。
私は、時代と共に変わるのは、価値観や倫理観の中身ではなく、枠組みだと思う。
森羅万象の概念が浮かぶ広大な海に、価値観という大きな輪を投げる。その輪の中に入るのが、その時代に求められる価値観だ。輪に入る中身自体が入れ替わるのではなく、輪の大きさが変わるのではないか、と私は考えている。
かつては、障害者や人種、民族で公然と差別されていた。今もなくなったとは言い難いが。
たとえどんな理由があろうと、本人の変えようのないことで差別をしてはならないという価値観が輪の中に入るくらい、輪そのものが大きくなった。
家業を継ぐことも大事だが、本人の希望も大事という価値観が輪の中に入れるくらい、輪が大きくなった。会社の利益も大事だが、従業員の健康と個人的な生き方の尊重の方が大事ということが輪に入れるようになった。
価値観や倫理観という概念は、まだまだ膨張を続けるだろう。多様性とはそういうことだからだ。
そして、膨張の限界点に達した時、一気に収縮を始めるのではないかと思う。風船の中の空気が一気に抜けるように、輪の中に入っていた価値観が外に押し出される。
個人だろうと集団だろうと国だろうと社会だろうと、限界を超えて受け入れようとすると、一気に崩壊する。ダムが決壊するのと同じだ。
自然環境を守ることはできるだろうが、社会は人間が運営する以上は、持続可能性に限界があるのだ。
形は違えど、かつての村社会に回帰する日が来るかもしれない。
たとえば、〇〇界隈という言葉がある。共通のコンテンツによって結びついた人たちの集団だ。発言力がある人がいて、ない人がいて、時には諍いが起きて馴れ合いがあって、完成された界隈ほど、新規の人は入りずらい。これも一つの村社会とは言えないか。
かつてはオタクと呼ばれていた人が受け入れられた。そのうち、人は誰しもが何かのオタクになり、どこかの界隈に所属し、その界隈独自の小さな輪に入る価値観で運営される世の中になるかもしれない。
界隈の卑弥呼ができて、界隈の貴族がいて、界隈の内戦を経て、界隈に幕府ができ、界隈の幕府は崩壊し、界隈自体が崩壊し、グローバル化が叫ばれるのかもしれない。
歴史の輪廻を感じるではないか。
ただの空想ですが。