【短編小説】 歩いてゆく
上甲哲也は歩いている。
2年前には着慣れていなかったスーツも
すっかり板についてきたように見える。
第二新卒扱いしてもらえる年齢のうちに
正社員経験をしておかないと人生詰む……という焦りから
所属していた劇団を辞めて
大学の先輩の紹介で営業職の会社員となった。
そして今、営業先の企業に向かって歩いている。
平岡蓮は歩いている。
1年前には顔も名前も知らなかった女性と
駅までの道のりを一緒に歩いている。
1年前、劇団で役者を続けるために
勤務シフトにある程度の自由が効く派遣社員として働き始めたが
同じ日にコールセンターに採用された人たちは
3ヶ月後には半数が辞め
半年後には残った人たちのさらに半分が辞めた。
今や同期は隣を歩いている女性だけになってしまった。
そして今、1日の仕事を終えて帰り道を歩いている。
鳥海舞香は歩いている。
半年前には知らなかった感情を胸に抱きながら
平岡にはその想いを悟られまいとしつつ歩いている。
どうせ結婚したら会社を辞めるつもりだし
収入と不釣り合いな責任や重圧を背負わせらるのも嫌だったので
派遣社員として働き続けていた。
しかし、皮肉なことに
今までの恋愛遍歴の中で一番好きになった人は
とても彼女を専業主婦にはできそうにない役者志望の男だった。
そして今
このまま永遠に駅に着かなければいいのに、
と思いつつ歩いている。
若宮恵海は歩いている。
3ヶ月前には感じたことのないモヤモヤと
心地よい惰性からくる安心感を秤にかけながら歩いている。
恋人である瀬尾拓実とは、
交際して2度目の誕生日を過ごしたばかりだ。
大学3年生の恵海と、社会人3年目を迎える瀬尾は
表向きは順調な交際を続けているが
お互い自覚できないような溝が生じている。
それが言葉として像を結んだ時
ふたりは別れることになる。
恵海は心の底では分かっていたが
今の心地よさを手放したくない。
そして今、
モヤモヤさせたままにすると決めて、歩いてゆく。
日向野祐司は歩いている。
3日前にランチを食べた店の店主から仕事依頼をされたので
その見積もりのために店主の自宅に向かって歩いている。
日向野はハウスクリーニング業を始めて10年になる。
その前はホストクラブで働いていたが
トラブルに巻き込まれてしまい
歌舞伎町に出入りすることが憚れる身となった。
それから職をいくつか渡り歩いた後
自分は清掃業に向いていることに気づいた。
日向野がトラブルに巻き込まれた12年前、
助けてくれたのは、3日前にランチを食べた店の店主の兄だった。
店の名前は『491』
国道沿いにあるダイナーで、日向野は仕事終わりに
偶然入った店だった。
そこの店長・久我山カオルの顔に見覚えがあり
話を聞いてみたら、恩人である人物の妹だということがわかった。
その話の流れで日向野がハウスクリーニング をしているというので
仕事の依頼を受けたのだ。
その日その時の『491』店内には、
上甲哲也も、平岡蓮も、鳥海舞香も
若宮恵海も、瀬尾拓実も、居合わせていた。
そして、いずれその全員から
エアコンクリーニングの依頼を受けて
日向野はそれぞれの自宅を訪れることになる。
しかし、そのことは誰も知らない。
運命といえなくもないこの偶然は
観測者がいなければ、偶然ですらなく
何もなかったことと同じだ。
日向野は運命なんて信じない、と決めていた。
信じてしまったら、自分の人生を手放してしまうような気がした。
自分の母がそうだったように。
どんなに辛い人生であっても
自分の人生を引き受けて歩いていくしかない。
感情や感傷を勘定に入れず
今はひとまず歩いてゆく。
日向野はそうすることで今まで生きてきた。
誰かに教わったことのような気もするが
自分で辿り着いた考えのような気もする。
どっちだっていい。
まず今は歩いてゆく。
次の依頼者のところへ。
運命ではなく偶然が引き合わせてくれた
恩人の妹さんのところへ。
歩いてゆく。