ぼくのBL 第四十六回
ドルオタを本気で一年間やってみて気づいたこと
お久しぶりです。誰も待ってないと思うけれど。
前回の記事(1月!!)からお前はいったい何をしていたのかというと、全力でオタ活をしてました! と胸を張って言い切ります。
前回の記事以降にあったことを簡潔に説明すると、
続けざまに推しの卒業発表⇒実際の卒業
があったのです。
半年ほど前にも、心底から愛したアイドルの卒業があり、心に相当な深手を負ったことがある。
こんな思いをするくらいなら、「もう恋なんてしない」(©槇原敬之)などと感じていたのだが、やはりアイドルへの想いというのは恋と同じで、「探す・見つける」ものではなく、「落ちる・見つけてしまう」ものだということに改めて気づかされた次第。
まあマッキーの歌も「もう恋なんてしない、なんて言わないよ絶対」って歌詞なので言わずもがなだけれど。
深入りすればするほど失ったときのダメージが大きいことは先刻承知なのに、暴走する自分をどうしても止められない。
知れば知るほど魅力の淵が深くなり、ずぶずぶと嵌っていってしまうことに陶酔を覚えてしまう。
DDならどんなに楽だっただろうと思うことがある。
でも、ぼくの愛し方はこれしかない。不器用だから中途半端な愛し方ができないのだ。
学生時代の別れは、ある意味予定調和のところがある。
入学した時点で卒業と言うゴールが設定されているから、自分の中でも感情の調整をしながらその日を迎えられる。
しかしアイドルは違う。
卒業・解散は突然やって来るのだ。
しかもファンの側は知らされるタイミングがギリギリのことが多い。
全力で走っていたら急に断崖が現れるようなものだ。
だから。
必死に追いかけた。
渾身の贈り物を作った。
精いっぱいの応援をした。
事前に1リットルもの涙を流した。
悔いのないオタ活をしたと思う。
ぼくは以前にこんな記事を書いた。
都合のいい話だ。
いまの推しに対して「これまでの推しを胸に抱えたままのぼくを受け入れてほしい」なんて願望を垂れ流した記事。
それが今。
受け入れてほしいなんて思っていた当の推しが卒業してしまった。
上記の記事では、かつて愛した推しを「音無惣一郎」に模して語っている。
それがいま、ぼくの中の惣一郎さんは「複数の推しの集合体」という、混沌とした存在になってしまった。
それでもやはり、それぞれの推しはそれぞれの煌めきを放ちながら、ぼくの中に生き続けている。
順列などない。
誰もがオンリーワンだ。
これからもぼくはドルオタを続ける。
そして、やはりそれぞれ違った煌めきを受け入れ、オンリーワンの愛し方をするだろう。
これから先、卒業してしまった推しと共有できる時間はないかもしれない。
しかし、思い出はいつまでもまばゆく輝き続ける。
推しからもらった勇気で、ぼくは人生を見つめ直すことができた。
そのアイドルがこの世に存在し、まばゆい煌めきを放って活躍していたことを、いつまでも語り継いでいこうと思う。
忘れることなどない。
だけど、立ち止まってもいられない。
思い出にいつまでもずっと留まることはきっと卒業したアイドルにとって失礼に当たるから。
アイドルという生き方がどれほど尊いものなのか、どれほど人の心を感動で震わせてくれるものなのか、その人を見るだけでどれほど力が湧いてくるのか、その人を思うだけでどれだけ心の芯が温かくなるのか、その人のために行動を起こすことがどれほど楽しいものなのか。
そういったことを、ずっと語り続けていこう。
ぼくのドルオタ人生は、まだ始まったばかりだ。