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ぼくのBL 第三十九回

忘れられない物語


 毎年ある季節になると思い出す物語というものがある。
 ヘッダに載せたのは北村薫の『秋の花』。
 秋海棠という花の写真が、創元推理文庫には掲載されている。別名「断腸花」とも呼ばれ、子を喪った母の涙が落ちて花になったものと説明される。
 「円紫さんと私」シリーズ3作目、初の長編だ。
 デビュー当時から追っているわたしは、北村薫が覆面作家だった時代を知っている。本書が刊行されたときには既に覆面を脱いで、素性が明らかになっていたけれど、それが読書に影響を与えたかと言われれば否と答えるだろう。
 それまでの連作短編集2作では「日常の謎」が扱われていた。喫茶店でシュガーポットから何杯も何杯も砂糖をティーカップに入れる客の謎とか、書店で見かけた上下がさかさまになっている本の謎とか、そういった人の生き死にに関係しない(かといって「死」をまったく連想させないという意味ではない)物語だった。

 初の長編である本書は、シリーズで初めて人が死ぬお話だ。
 秋。
 主人公の「私」の母校である高校の文化祭で、「私」が面識のある後輩の女子高生が校舎から転落死を遂げる。現場は密室といってもいい状況だったのだが、彼女はどのようにして「死」という結末を迎えたのか。

 この物語は謎を解くことが主題にはなっていない。
 後半に差し掛かる前で、謎は解かれる。しかし、登場人物たちの人生はそれからも続く。否が応でも続いていくのだ。
 加害者の人生、被害者家族の人生。それぞれが一人の死者を介して「その後」の人生を生きなければならない。本作はその残酷さから目を逸らさずに描き切った、とてもハードな物語なのだ。
 ある日、突然に命を奪われてしまった後輩に心を痛める「私」は、探偵役である春桜亭円紫さんに問う。

「私達って、そんなにもろいんでしょうか」
「もろいです。しかし、その私達が、今は生きているということが大事なのではありませんか。百年生きようと千年生きようと、結局持つのは今という一つの時の連続です。もろさを知るからこそ、手の中から擦り抜けそうな、その今をつかまえて、何かをしようと思い、何者かでありたいと願い、また何かを残せるのでしょう」

『秋の花』北村薫

 北村薫は、「時」を鮮明に切り取ることに長けている。
 その名の通り「時と人」シリーズという3部作(『スキップ』『ターン』『リセット』新潮文庫)も著しているし、その他の著作でも折に触れてこの主題が顔を出す。

 次に、私が好きな言葉を引用する。

 別のシリーズだが、やはり探偵と助手が登場する物語。
 ある人物を殺害した犯人が、犯行の動機を語ったそのあと、最後に探偵と助手に向けて放つ言葉だ。

今死んで悔いのない人間でなければ、本当に生きているとはいえないのではありませんか。

「冬のオペラ」北村薫

 自分の手を汚さざるを得なかった犯人に対して同情する助手と、それを受ける探偵のやり取りが続く。犯人の名前は伏字にした。

「先生。先生は、●●さんが《鬼》になったと思うのですか」
「思います」
「先生!」
「人を殺したからではない。かくありたかった、こんな筈ではなかったという思いに執着し、そこで足摺りをし、悶えたからです。そういう意味では、人は多くの場合、鬼になるのではありませんか」
 また唇を噛むしかなかった。
 わたしも、内心多くの求めるものがある。それこそが夢である。夢がなければ生きられない。しかし、十年経った時、果たしてそのいくつを手にしていられることか。
 だが、時は決して待たない。過ぎていく。

「冬のオペラ」北村薫


 令和くんは5年経ってもまだ手加減を知らず、今年も秋を実感しないまま、夏から一気に冬に突入していくようだ。
 だが、毎年秋から冬にかけてのこの時期に、ぼくはこの物語たちを思い出す。
 そして、「今を生きる」ということの意味を問い直している。


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