ALS嘱託殺人事件を題材に安楽死・尊厳死について議論することの危険性
こちらの方のnoteに触発されて記事を書いてみました。学生の中にも、今回の事件をきっかけに死ぬ権利は保障されるべき、と思う人もいるかもしれません。そうした学生の疑問、質問に答える形で話をしようと思います。
ALSの女性に対して、医師らが嘱託殺人を行ったという事件です。この行為に対する正当性であったり、死ぬ権利は保障されるべき、などの議論が聞かれるようになりました。
考えを整理した結果を先にお伝えしますと、今回の事件を題材に安楽死・尊厳死を議論することはふさわしくない、といえます。なぜならば、今回の事件は論点が複数あり、入り組んでいます。議論している人同士の意見はかみ合わなくなるでしょう。
今回の事件の論点を整理すると、
SNSで知り合った医師が嘱託殺人を行ったことの問題
安楽死・尊厳死(死ぬ権利の問題)の問題
ALSという病気の性質と難病・障害者に対するケア(心身合わせた)の問題
などがあります(医師が実質無免許だった問題も追加できそうですね。論点も増えるかもしれませんね)。
こうした論点を整理して考えるべきだと思います。
こちらの記事でもありますように、海外で、安楽死・尊厳死を認める場合でも、かかりつけ医が行い、所定のプロセスに沿って行います。
ですから、死にたいです。
はい、どうぞ。
というほど、軽い話ではありません。
まず、認められている国においても安易に認められる行為ではないということを知った上で議論をしなければなりません。
先ほど紹介したnoteでも言及されていることですが、『社会的弱者』への排除の圧力に私たちは注意しなければなりません。
生きている価値とは何か?という議論ですね。何を持って人の生きる価値と考えるべきなのか?生きる価値がない人は排除されるべきなのか?社会として居場所を作る必要ないのか?
孤独の解消に向けたロボット開発に従事して多くの難病(ALS患者も含む)に生きる希望、価値を、ロボットを通じて提供している吉藤さん。
孤独の解消のためには寝たきりの人であっても誰かの役に立っている、働ける場所が必要なんだ、と取り組んでいる彼。
彼の活動、多くの人に生きる力を与えるだけでなく、ALSの方が働けることによってまた新しい価値を私たち(社会)に提供してくれています。
もちろん、このアプローチでも、すべての社会的な弱者の孤独の解消とはなりえません。ALS患者は身体は動かなくなっていきますが、知的な活動は行えますから、ロボットが動かせます。そうしたこともできない人は価値がないのか?という議論がまた起こり得ます(吉藤さんもすべての人へのアプローチでないことを認めています)。
そうした事に対する一つのアプロ―チはこちらですね。
障害者の方っていうと、何かが出来ない人だって思ってるんだとしたら、僕らはそう思ってない。僕らは彼らが出来る人だと思ってるから、だから一緒にやっている。確かに理解力の差っていうのはそれぞれありますし、言葉で伝えてすぐわかる人は多くないですから、教えることはとても難しいことだと思うし、今もウチの一番の課題はどう伝えるかっていうことだと思うんです。ただ、一回ちゃんと理解してくれたことに対してきちんとその通りやってくれるという意味で、すごく信頼できる人たちだっていうことが分かって、かつ、教え方さえどうにか工夫すれば、この人たちはきちんとやってくれるっていうことが分かったから、続けてこれたんだと思います。
日本理化学工業 大山隆久社長の談、です。
障害者と捉えるのではなく一つの個性として捉えている。そうした素敵な社長さんの姿勢がうかがえますね。
とはいえ、これとて障害者全てを救っているわけではない。1%にも満たない人たちでしょう。
難病、障害を抱えている方、何らかの理由で社会的弱者になってしまっている方々は、排除され、孤独の状況に追い詰められていくことがあります。家族からも周りからも虐げられ、差別されることもあるでしょう。ですから、助けが必要なわけです。
家族だけでは対応できないでしょう。私たち一人一人が社会の一員として真剣に向き合って考えていかなければなりません。
私が出来ることは、こうして文章を書くこと、そして金銭的なこと、今はこれしかできていません。
少ない金額ですが、こちらに寄付を毎月しています。私が支援させてもらっている女の子は知的な障害を抱えています。では彼女は価値がない人間として扱われるべきなのでしょうか?
そうした弱者排除の論理が起こしたおぞましい事件がありました。
この問題について、同僚の佐々木先生は真剣に植松被告(当時)と向き合い、植松被告の偏見が社会にでる危険性について訴えました。
話が少し逸れたかもしれません。
難病と障害を抱えている人は必ずしも同一の状況ではありませんし、個人差もあります。さらに、こうした理由以外で社会的弱者となっている方々も数多くいます。今回のコロナによってそうした方々が増えていくことが懸念されています。
さて、ここまで整理してきてみて、彼女の安楽死・尊厳死について考えてみましょう。
彼女が死を望んだ状況が、こうした社会的な孤独に追い詰められた結果なのか、それとも難病への苦しみから生じたものなのか?それとも両方なのか?
どうなんでしょうか?
ALSを始めとした病気は個人差があります。彼女がどういった症状であったのか?どのように苦しんでいたのか?
そうしたことを本来であれば、知ってから安楽死・尊厳死の必要性について議論する必要があります。
こうした記録も全てSNS上の呟きでしか拾えていませんので、正確なことがわかりません(SNS上で出していたのが彼女の本音、実態である、ということを実証できません。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません)。病気の症状だけでなく、孤独に陥り、病状の進行への恐怖が彼女を死の決断へと駆り立てなのかもしれません。
つまり、純粋な意味での病状の進行により苦しんでいて、その苦しさから解放されたいという一心で死を望んでいたのか。はたまた、病状の進行と孤独に苛まれた結果として、死を望んだのか。それとも両方なのか。
もはや知るすべはありません。亡くなられてしまいましたから・・・。
さらに、SNSを通じてこうした医師たちは、嘱託殺人を行いました。彼らが崇高な使命感で行なったのか、それとも単なる殺人請負人であったのか。これまたわかりません。ただ、彼らは生きていますから、今後の検証はある程度期待できます。その辺りの真相究明は期待したいところです。また麻薬の取引などもそうですが、こうした行為をSNS上でやり取りしてやってしまえることも今回の事件の問題の争点になりえます。
以上、ざっとですが、整理してみて私自身思ったことは、最初の結論の通りです。議論するには分からないことが多すぎるので、今回の事件を争点にして、尊厳死・安楽死は語れない、語ることは危険です。
人によって認められるべき、と答えたり、個人の権利である、と主張される方もいるかもしれません。それもまた考えるべき問題であると思います。
ただし、2つの条件を満たす必要があります。難病で死を待つしかない人に『十分な医療的・社会的なケアがされている状態』でかつ、『生きる権利を放棄させるような社会の圧力をなくした状態』であること、です。この二つの前提条件を満たすことができて、初めて議論されるべき俎上に載せられます。
安易に安楽死・尊厳死の議論をすることは、ALSを含めた難病を抱えている人、認知症を患っている方、寝たきりの方、などの人たちを排除する論理に繋がらないでしょうか(この点については冒頭に紹介したnoteをご覧ください。日本人の特性についてもデータに基づいて触れられています)?
繰り返しですが、病気の問題については難しいです。難病もしくは余命が決まっているような病気にかかった場合の安楽死・尊厳死の是非を議論すべき、といえばそうなのかもしれません。
ただ、日本社会の同調圧力(今、まさに感じていますよね?)、自粛警察、イベントやったら、非常識だと怒鳴り込んでくる人、コロナにかかった人を執拗に追跡して回ったり・・・という独特の国民性を鑑みますと、今、この状況で、安楽死、尊厳死の是非を議論することはよかならぬ方向性に行ってしまう危険性を感じています。
「ALS嘱託殺人をきっかけにおきた安楽死・尊厳死の必要性についてどう思われますか?」という学生からの問いかけについて、上記の理由からこの事件を題材に安楽死・尊厳死の是非を議論することは危うい、というのが結論になります(長くてすいません)。