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リスクを巡る定義から今の時代を読み解いてみる


リスク、という用語ほど定義が難しいものはありません。

リスクは直訳すると危険になりますが、

実は分野や取り扱っている文章の文脈によって変わってきます。

大きく分けて3つの定義があるのではないかと思っています。

危険

マイナス

マイナスとプラス

危険はまさに危険そのものの話ですね。リスクと危険の違いは何でしょうか?

危険は、危険そのもの、いわゆるハザードと呼ばれる状態であるのにたいして、リスクは危険が発現するかどうかについては、やや不確実性がある状態といってよいでしょう。

例えば、ピーター・ドラッカーは次のように言っています。

「リスクには基本的に、四つの種類がある。 第一に負うべきリスク、第二に負えるリスク、 第三に負えないリスク、第四に負わないことによるリスクである」 (ドラッカー名著集⑥『創造する経営者』)

ドラッカーは経営学者ですから文脈の多くは、「プラスとマイナス」両方の意味合いで使いながら、事業上の運営で必要なリスク(負うべきリスク)、コントロールできるリスク(負えるリスク)の二つを引き受けて、さらに負えないリスク(コントロールできないリスク)、負わないことによるリスク(新しい事業に挑戦しないことで生じる別のリスク)

に切り分けて、リスクの性質に着目した話をしています。

一方で、マイナスのみを表している話もあります。



リスクという話をする際にはこの巨人に触れない訳にはいきません。

一人は、ウルリッヒ・ベックです。

ウルリッヒ・ベック氏(ドイツの社会学者)ドイツのメディアによると、1日、心筋梗塞のため死去、70歳。関係者が3日明らかにした。現代社会が抱えるリスクを警告した著書「危険社会」(1986年)で知られ、ドイツを代表する社会学者。
ポーランド北部生まれ。ミュンスター大教授などを経てミュンヘン大教授。東京電力福島第1原子力発電所事故を受け、脱原発を提言したドイツ政府の諮問機関「倫理委員会」のメンバーも務めた。(ベルリン=共同)

「リスク社会」概念の提唱者です。

まさに今読み返すべき古典の一つです。一つ印象的なところを要約しましょう。

「科学の合理性と社会の合理性」(危険社会、39-41の要約)

リスク判断に関する合理性について科学が独占していた状況が崩壊し、異なる立場の人たちにおける対立が生じる。危険(リスク)の定義において、何が原因なのか結果なのか、加害者なのか被害者なのかが争われる。
科学者は危険の定義において合理的たらんと心がけて情熱的に問題に取り組んでいる。その線引き(境界線、危険が歩かないかという判断)について、科学の有する合理性にあって把握しようとするが、それはおのずと弱まって消えていく。この種の科学的な合理性が推測と仮定という砂上の楼閣に築かれているからである。危険を確認する場合の基礎になるのは数値の範囲であり、また社会の利害である。
つまり文明に伴うリスク、科学的な合理性と社会的な合理性の対立は、しばしば話が相互にかみ合わず、質問が出されても質問を受ける側がそれに全く答えなかったりする。また、不安の下となっている問題の本質をつかない的外れな回答が出されたりすることもある。

この本を既に、1986年からこうしたことを主張してきたわけです。

正しくはリスク(危険)社会と上記の本も訳すべきだと思うのですが、訳者ですら、危険と訳すか、リスクと訳すか、迷う訳ですから、リスクという定義はいかに厄介な(リスクだけに?)用語が分かります。

リスクは多義的な意味を含む言葉なので、

「リスクがある」と言われたときに相手は様々な連想ををしてしまう可能性があります。

それがリスクの難しいところでもあり、面白いところです。

今の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に限らず、現代社会は、農薬の問題に伴う水汚染、資本主義社会において使われるエネルギー消費とそれに伴う汚染、温暖化、原子力の問題などなど、科学技術に関連する様々な問題に直面してきました。

そのたびに科学的な合理性と社会的な合理性、ベックの言葉を借りれば、文明の危険(リスク)に私たちは直面してきました。

またグローバル化がその問題をさらに加速させ、複雑化させているわけです。

ベックが書かれている時代は今ほどグローバル化していませんでしたので、まさに今、世界は未知のリスク社会、不確実性の時代を迎えたと言っても過言ではないでしょう。


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