震災と写真表現のかかわりをめぐる断章
再掲[震災から10年 写真家が見たもの・震災と写真表現のかかわりをめぐる断章/日本カメラ2020年3月号:62-64]
あの日から10年。と語るとき、そのまなざしは、過去を見ているのだろうか、未来を見ているのだろうか。10年と区切るとき、それは、あのできごとを歴史にしようとするのか、それを拒もうとするのか。写真表現は、あのできごとを振り返るのか、未来へと運んでいこうとするのか。東日本大震災と写真表現のかかわりは、まだまだ現在進行中のものであり、それを総括するには、時期尚早であろう。したがって、ここでは、東日本大震災と写真表現のかかわりの、いくつかの断面を素描するにとどめよう。
カタストロフィという言葉がある。思想や芸術などではしばしば使われてきた、破局、破滅、大災害、突然の大変動、悲劇的な結末などと説明される言葉だが、かつてはイメージがわきにくい抽象的な言葉だったといっていいだろう。
それが突如、具体的なできごとを指す言葉になったのが、あの日、2011年3月11日だった。カタストロフィという言葉を知っていた人は、これがカタストロフィか、カタストロフィとはこのことだ、と実感したことだろう。
そして、あの日を境に、写真表現の在りようが変わった。写真とは何か、写真にできることは何なのか、と繰り返し問い返されてきた——、といわれてきた。
歴史的にも、カタストロフィは写真表現に大きな影響を与えてきた。写真術の誕生以降、あらゆるカタストロフィにカメラが向けられてきた。
日本の写真表現に大きな影響を与えたカタストロフィのひとつは、いうまでもなく第二次世界大戦である。そこからさまざまな問いかけと表現が生まれ、原爆が投下された広島や長崎は、いまなお写真家にとって重要なテーマであり続けている。
カタストロフィは、意味を切断する。昨日までの光景を一変させるだけでなく、変わっていないはずの光景も、まったく違ったように見えてくるようになる。広島や長崎といった地名、8月6日、8月9日、8月15日といった日付が、特別な意味を帯びてくる。それだけではない。カタストロフィは、人間の連続性も切断する。昨日の自分と今日の自分が、まったく違ったように感じられてくる。〈ここ〉にいなかったかもしれない自分を見つめる〈いま〉の自分は、天使のようでもある。とりわけ表現者は、このことに特別な使命を感じ取るかもしれない。
こうして、カタストロフィは転回を誘う。第二次世界大戦後、多くの写真家たちは、戦後の写真家になり、戦後の写真表現を切り開いていった。これは同語反復のように思われるかもしれないが、そうではない。内在的に育まれてきたはずの表現が、ある日を境に、戦後という外在性によって満たされる。戦中の写真家から、戦後の写真家へと転回する。いわゆるリアリズム写真運動は、そうした転回によって隆盛した。
写真表現の在りようが変わった、というとき、見逃されている問いがある。それは、そもそも変わっていないのかもしれない、という問いである。変わった、という視点が自明のものになるとき、変わっていないという連続性もまた、切断の結果となる。つまり、変わっていないということがありえない以上、それは、あえて変わらなかったという選択と見なされるのだ。
あの日以降、写真家たちは自問自答を繰り返してきた——、といわれてきた。被災地に行くのか行かないのか。行ったとしたら撮るのか撮らないのか。撮るとしたら何を撮るのか。これらの行為と態度を表明するのかしないのか。表明するとしたらどのようにするのか。あるいはこのような一連の問いそのものを、あえて保留にするのか。こうして織りなされた行為と言述が、3月11日以降の写真表現を形作ってきた。
それをどう呼ぶのか、ということ自体も、またひとつの態度の表明となるだろう。国内観測史上最大規模の地震によるこの未曾有の大災害は、当初、東北関東大震災、東日本大震災、東北地方太平洋沖地震などと呼ばれ、4月1日、東日本大震災という呼称に閣議決定された。3.11、サンイチイチ、東北、三陸、気仙沼、福島といった日付や地名をこうして記すときにも、そして記さないときにも、その意味を考えざるをえない。その結果、何らかの呼称や日付や地名を選び取ることもあれば、選び取ることを避けることもあるだろう。
3月11日以前の写真表現がどのようなものだったか、思い出すことはできるだろうか。差異と戯れ、楽しさ、面白さは、希望や勇気に変わっていった。投げかけられた問いに混じっていた冷笑は、慎ましさや真摯さと見なされるようになった。このような転回は、端的にいえば、よりよい人間であろうとした結果である。では、3月11日以前の表現者は、どのような人間だったのだろうか。
たしかに、東日本大震災というカタストロフィは、写真表現を変容させたように思える。だがそれは、それ以上に、写真家それぞれの、自己と表現への態度を浮かび上がらせたのかもしれない。
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