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初めて書く。noteを。

湿度の高い夜、窓を開け久石譲の『紅の豚オリジナル・サウンドトラック』流しながら、初めて文を綴っている。何故か。それは、自分なりに感じたこと、解釈したことをアウトプットし、”残しておきたい”と思ったからだ。誰が目にするか、読むか関係ナシに。

個人的に感じたこと中心、さらには文自体が稚拙ですので、もし読んでくれた方がいたら、(こう述べている時点で、誰かが目にすること、読むことを意識してしまっているわけだが。)その点ご容赦ください。

初めてのnoteは展示の感想ついて書いてみようと思う。


0.『出来事との距離ー描かれたニュース・日常』

今回は、町田市立国際版画美術館で6月3日(土)から7月17日(月・祝)の期間で開催されている展示を見てきた。”個人的”に印象に残った作家ごとにまとめてみた。

1. 浜田 知明(はまだ ちめい)

第二次世界大戦では日本軍の兵士として戦地に赴いた経験があり、戦地でもスケッチなどを残している。東京美術学校(現東京藝術大学)の油画科出身。2018年に100歳で逝去。

構図や明暗の組み方がかっこよく、目に留まった。また、陰の部分をアクアチントで表現している作品は、作者の精神性が表出しているように感じた。「初年兵哀歌」のシリーズでは、作者が戦地で目にした凄惨な状況や、自身の倒懸な精神状況などを独特にデフォルメし、より生々しく伝えている。

「ボタンB」では、「目の前のボタンがどのようなボタンであるかなど、理解せず、上官の命令であれば押す。」という、戦争特有(いや、戦争でなくともよくあることだ。)の人間的倫理の欠如した状況を風刺した作品なども印象的だった。

2. 松本 悠(まつもと はるか)

「アルマゲール島(祖母と大叔母の話)」では、戦死した亡き父の手がかりが"アルマゲール島"と、紙に書かれた一つのキーワードのみ。今もなお、慰霊碑を見つけると父を想い、探してしまう祖母と大叔母を描いた大作。4つに区切られている画面は断片的な情報を暗示しているのだろうか、、、祖母が慰霊碑に目線を注がず、下を見つめているのがなにかくる。

「 蛇口泥棒 」と事件(出来事)を被告人と同じように追体験し、漫画にした「 蛇口泥棒日記 」からなる作品群は事件(出来事)を追体験した上、再び版画で作品にしている点が面白かった。また、被告人を主題にするのではなく、被告人が犯行に及ぶ間、そばで待っている子供を主題にしている点も斬新だった。※1

松本さんの作品を鑑賞している私たちを含めると、こういった関係が見えてくるように思える。

・事件(出来事)-作者-事件(作者追体験≒蛇口泥棒日記)-出来事(≒作品)-鑑賞者

実際には、作者が追体験した被告人の出来事(事件)も鑑賞者は漫画作品を通し、追体験するため、関係性はさらに幾重にもなる。作品は版画を通した出来事(事件)の伝わり方が重層化されており、考えさせられる箇所があった。実際の事件(出来事)を再び作品にする作者は、普段、私たちが目にしては流れ過ぎていく、事件(出来事)に対し、どれだけの考えと感情を抱き、それらは変化していったのだろうか。基本的に、他人事でどこか無縁のように思える、さらに言えば、他人の不幸ですら、ニュースや出来事(事件)として、客観的に捉えられてしまう私たちにも、問いかけてくるような感覚を覚えた。

事件(出来事)を追体験した漫画作品。

※1 作者の松本さんはこの事件で法廷画家を担当していたそうです。それがきっかけでこれらの取り組みをすることにしたそう。私が蛇口を盗んだら誰か、追体験した上で、作品にしてくれますか。山奥の辺境な蛇口を盗みに行ってやります。追体験するあなたは、たくさん歩いて苦しむでしょう。

3. ソ・ジオ

作者自身の架空の設定や登場人物などを新聞に取り上げた作品群が面白かった。どことなく、筒井康隆的なアイロニーと自虐的(印刷技術・版画に対して)な姿勢が見ていて面白かった。

日常的に考える作者の記事(出来事)に対する違和感のようなものを含めて、前述の松本悠さんと比べると、掘り下げ方が対照的だと感じた。※後に詳しく書きます。

現代において、印刷技術は新聞などの情報伝達のメディアの媒体として利用されている。しかし、時折、新聞で伝えられる情報(というよりかは、記事のネタ)が愚劣な内容であったり、誰がどう目にしても呆れる内容であったりする。そう、現代ではそんなものがわざわざ新聞に掲載されたりする。それらをシニカルかつ、自虐的に批判しているのだろうか。また、その手段が作者自身の架空の設定や登場人物を用いているため、面白かった。

4. 出来事(事件・記事)に対する踏み込み方が対照的な2人

まず、この章では、

事件=出来事=記事

であることを前提とします。

松本さんの場合は、事件・裁判での被告人の様子を通じ、実際に被告人が辿ったであろう、犯行の道のりを追体験することで、事件から遠い位置にまで踏み込んでいる。それに対し、ソさんは身近な記事に対して自分の架空の領域で思考し、遠い位置まで踏み込んでいる。

松本さんが現実世界で被告人の犯行を追体験した距離を正の値とするならば、ソさんは負の値の距離をとる。架空の領域で思考し、記事の内容に踏み込んでいるのだ。いずれも正と負の中央には出来事-作者の関係があり、踏み込む様子はとても積極的である。そう、踏み込むっていうのは、物事に対し、考えや想いを巡らせて自分なりの解釈でイメージを拡張させていくことだ。そして、今回の作品を目にした鑑賞者である私たちも含めると、

出来事-作者-出来事(≒作品)-鑑賞者

のような関係が成り立つとも思った。

5. さいごに

勿論、作品と対峙していることも、出来事であり、人によって、それとの距離も様々だ。さらに、作品を通し、その奥には幾重にも出来事が存在している。まさに展示会のタイトルにもある通りだと感じた。私はこの文を書くことで、今回出会った作品(出来事)とそのさらに奥に幾重にも重なっている出来事に対して、どれくらい踏み込み、イメージを拡張できたのだろうか。しかし、これだけは言える。この展示を境に、間違いなく、明日から視界に収まる物事全ての捉え方や解釈・思考の仕方が拡張されるだろう。そして、日常に散らばる些細な出来事もあなたが捉えれば、それらはニュースになり、作品(出来事)になりうる。そうして、また誰かがあなたの作品を出来事として鑑賞し、幾重にも影響し合い、出来事が重なっていくのだ。



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