見出し画像

人間のサイゴ

人としてその一生が終わりを告げるのは死んでからなのだろうか
私は違うような気がする

叔母が自殺で死んだ
持ち合わせていた感情の種類が多い人だった、母のことを苦しめた1人だと気づいた時からは多分もう好きじゃなかったと思う、別れの挨拶の時もそういう感情は出てこなかったから
叔母は可哀想だなと私らしくない同情の目を向けられるぐらいには残念な人だった、周りの環境も人も人生もだけど何よりそこら辺の人と比べて挽回のチャンスが多く巡ってきていたのにその運を1度も自分のものに出来なかったことがさらに残念な人であることに拍車をかけていた

遺体安置所でも火葬場でも見たけれどどの時点で死んでいたんだろう
この地球の酸素を吸えなくなった瞬間ではないような気がする、分かんないけど

消えたのは叔母自身ではなく、私の叔母に対する感情なのかもしれない
言葉になんて到底できるものではないけれど自殺は同時に他殺も行っているのではないだろうか

この感情の他殺はヒトの歯車を狂わせようとしてくる
どうにか噛み合うように動かすには気持ちを紐解く必要があるそれは私の抱えるパンドラの箱にも絡みついていて時々間違った紐を解いてしまい開けたくないその箱が開いたりしてしまう

そして見たくないものを見て、思い出したくない感情が思い出されてその日は全部の紐が絡み合いこっちの体力が0になったところでゲームオーバー
そうなったらどうするのか?勝手に紐が解かれることは絶対にないのでまずは自分のHPを100に戻す、そしてそれにはまた労力がかかりHPがマイナスになることに不安を抱えてなんとか自分の機嫌を取る
これが面倒くさい、なぜなら日常生活にこの「自分の機嫌取り」を組み込まなくてはならないからそれだけに集中できるわけでもない私はまだ生きているから

だから私は叔母に絶対死んでほしくない、一生どこかで償い続けて幸せなことはなにも見えないままいてほしい
私たちの紐解きが終わるその時まで

と書いたのは7月15日のはなし
そこから約3ヶ月経つと怒りの感情は時々顔を出す程度で、わたしはわたしの人生を歩かなくてはと思い出し今はそっと蓋を閉めている

いいなと思ったら応援しよう!