時間屋 〜急場を逃すな〜
暑い日照りの中、水いっぱいが欲しいと寄ったのが薄暗い喫茶店だった。
ドアを開けて店内に入ると、カウンターに初老の男性客が一人みえた。奥にいた店主らしき人物は、こちらを確めたあと「入んなよ」と席へ案内した。
「今日はマンデリンだけなんだ。」
とにかく水が欲しかった。ブラジルでもベトナムでも、喉を潤したあとなら何でも楽しめると思った。「じゃぁそれを」と飲む意思を伝えると、店主はおしぼりと氷水で満たされたグラスを一杯、私の前に置いた。
一息に飲むと、カウンターに座っていた男性客が声をかけてきた。
「やけに暑い日だね。学生さんかな。専門は?」
「はい。今年で2年生で、これから物理を専門にやるつもりです。」
「これからね。大変だなぁ物理は。数学も英語もバッチリやっていかなきゃならない。」
素直に驚いた。物理と聞くと、大抵の人間は「りんごが落ちるんでしょ」とか「舌を出すのか」とか、もっと悪くなると「ノーベル賞をとってくれ」まで言って相手を数奇なもの扱いし、専門領域を侮辱する。だが、この客は違った。妙に興味が湧いたので、詳しい理由を聞いた。
「僕も若い時に少し勉強させてもらった身でね。囲碁ほど詳しくはないよ。」
「碁も打たれるんですね。物理を嗜む人は将棋派が多いと思っていました。」
「その通り。相手がいなくて、当時は困った。学校には、みんな物理を勉強しにきている。そこで囲碁の面白さを語ったところで、物理より面白いものはないとかなんとか言ってかわされて、結局は相手のいない学生時代を送ることになった。今はネットも環境が整っていて良いね、打ち放題だ。」
男性の当時の話は、自分の現在と愉快なほどに一致していた。
周りと比べると、自分には物理への関心がないらしい。大学に入学してからというもの、講義で扱う内容の半分でも理解していればよく学んでいると自分に言い聞かせ、騙し騙しやってきた。この夏を過ぎると専門領域の勉強が始まる。自分のこんな消極的な姿勢では、多大なエネルギーを要する物理の難関をとても乗り切れないと自覚していた。
そして、囲碁のことも。
「はい、マンデリン。」
店主からコーヒーを受け取ろうとしたが、熱すぎて持てなかった。店主は「失礼」とカウンターの向こうから細長い腕をぬぅっと伸ばし、ほとんど音も立てずに目の前に置いた。
「お客さん、暑そうにしていたけれど、マンデリンはホットが良いと思って。冷えたのがよければ作り直します。」
私は礼を言って、洒落たカップを口元に運んだ。
口の中に入るまえに芳醇な香りが鼻を抜けていった。暑さで麻痺している五感が急激に目覚めた。
途端、男性客が深く息を吸った。
「一局、打ちませんか。全部とは言いません。50手も打てば楽しいでしょう。」
私は快諾した。何か素晴らしいことが起こると全身が囁いていた。
ーーーーー
奥に案内された。
テーブルが一つ、その上には足がはずされた碁盤で傷がつかないように赤いフェルト生地が敷かれていた。そして碁笥が2つ。サイドテーブルが備えられていたので、先ほどまで飲んでいたマンデリンをカウンターから移した。
「ニギりましょう。」
碁笥から石をいくらか取り出し、互いに碁盤に置いた。黒石を持っている方はいくつでも置いて良い。私は白石を1つ取って盤上に置いた。
男性客は、黒石が奇数であることを確かめたあと、「じゃぁ、あなたが先手だ」と黒石の入った碁笥を私に取らせた。
礼ののちに対局が始まった。
簡明に打とう、と私は星に打ち続けた。天元まで打ち終えたところで、男性客は深くケイマへかかってきた。この客は、やりすぎたと思った。私はすかさず攻撃し、厳しいを越えて白石をいじめた。
白石は汗をかきながら全力疾走で逃げてゆくばかりで、碁盤の中央あたりまできてフラフラとしており、絶命寸前に思われた。私はトドメと、白石の眼形を完全に奪った。
そこから先は、あっという間だった。手にして10ほどの出来事だった。
いつの間にか攻めていた黒石が取り囲まれ、小さく縮こまり、地になるはずの黒模様は見事に荒らされた。
実力の差を痛感した私は「ありません」と負けを認め、敗着を問うた。男性客は困った顔をした。私は、言葉を選ばないで教えていただきたいと強く迫った。すると、重い口がゆっくりと開いた。
「この、ケイマにかかったあとフラフラしていた白石は、あなたにとっての『囲碁』です。」
男性客は言葉を探しているようだった。
私は次を待った。沈黙がしばらく続いたあと、男性客は静かに諭すように語った。
「あなたは楽しいものをすぐに追う性質が強い。目の前の興味のあることに純粋だ。熱量が普通ではないと言って良い。しかし、他にやるべきことがあるにもかかわらず手をつけていないということになると、話は簡単ではないのです。あなたは白石を追っている間、ご自身の黒石が根拠を失っていることに気づいていなかった。好きなことばかりやっていると、やがては、好きなことを上手に楽しめなくなってしまうということです。根拠をお持ちなさい。」
ーーーーー
「あれはいくつくらいの?」
「自分で言ってたでしょうに。大学2年生の時だよ。」
店主はグラスを拭いている。カウンターに座る男性から立つ煙が濃い。
「やんなきゃいけないことをしっかりやっていればなぁと、今ならちゃんと、そう思えるんだ。でも、当時はそう思えなくてね。」
「今でも、やんなきゃいけないことやってないでしょ。」
「そう言わないでよ、マスター。」
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