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色彩

 歯が痛くなくなって、涼しくなって、歩くだけでも気分がいい。曇天や露草の中でも、心は水彩画のように淡くゆるい。サンマの焼ける匂いとか、ショーケースに並ぶケーキとか、本を抱えて公園を歩く道とか、ささいな情景が日々を彩ってやまない。洗車をしていると、小さな虹が見える。雨がやんで、虹が架かる、そんな他愛もないことを楽しむ自分を楽しんでいる。

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 仕事用のユニフォーム帽の購入を依頼される。使ってるものが古くなってきちゃいまして、と笑う彼は、自分がはじめて受け入れを担当した利用者だった。特性や病気から、以前の職場では心ない言葉もかけられたと聞いた。家族と少しもめた際に、ここの職場で働きたい、と控えめに、でもはっきりと意思を告げたことを思い出す。もうそんな時期ですね、と笑って返しながら、お金を受けとり、真新しい、緑がまぶしい帽子をわたす。

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 切り花用のはさみの貸し出しを依頼される。元々生花の師だった彼女は、ホームの玄関にある自身で飾った花を剪定していた。短期入所の利用の際に、家に帰る助けになるように、と少しずつ歩行練習をしていた。夜中、オムツを替えながら、家族の心配や今後の不安を、静かに、でもはっきりと語っていたことを思い出す。うまいことは返せずに、ただただ相槌を打っていた。彼女がいなくなっても、彼女が飾った蘭の白さが、折れた背中を伸ばしていく。

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 引っ越して、少し慣れてきて、あちこち出かけるのが楽しい。薄給や浅眠の中でも、体は版画のようにかたく深い。おまけでバナナをくれる喫茶店とか、おにぎり専門店の豚汁とか、海の近くのスーパー銭湯とか、ささいな栄養が自分を元気にしてやまない。浅瀬で泳いでいると、波間に茜空が光る。空が晴れて、夕日が見える、そんなかけがえのないことに感動する自分に感動している。

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