今日はおしゃべり気分(浮)
日本の人権教育が遅れてるのは間違い無いと思う。他国が完璧なわけないし日本が優れている点もそりゃもちろんあるけど、相対的に見たとき、人権についての知識が乏しいし、そんな会話をするのがとても難しいと思う。
それはもちろんみんなで同じように進む、はみ出さないように足並みを揃える教育(全員がある一定の知識を持つ社会を作る(例:識字率の向上)のには有効だけど今はそれは達成してるしロボットがある程度できるから規律も大事だけど柔軟な発想とか国語力とか想像力を育てる教育にもうちょっと力を入れてもいいんじゃないかなーと思う、あと精神衛生上良くないしいじめとかが発生しやすい、色々大変な先生にこれ以上課すのもよくないから制度全体で考えなあかんけど)とかそれなりに暇な人しか政治に興味を持てない状況(党も派閥も複雑やし党名とか変えられたらいよいよ流れもわかりにくくなるし顔が同じ爺しかおらんからそれなりに時間と記憶と心のキャパないと追えないし興味も持てない)とか色々あると思うけど日本語という言語もこの大きな問題の一端を担っているんじゃないかなーと思ったりする。
トランスジェンダー、ミソジニー、ミックス、ホモソーシャル、エイブリズムなどどれもTwitterでたまに聞く言葉かな?ってじゃないかな。「アイデンティティー」はようやく定着しつつあるけどこういう人権について話すときによく出てくる単語って横文字が多くて意識高そうな感じがするし意味があんまり伝わってない/伝わりにくい傾向があるって感じる。もうちょい英語勉強せーや(英語教育のシステム変えんかい)っていうのは置いといて、まあ実際伝わらないものが定着するわけがない。
「あー、このバッファがある方のアジェンダでフィックスするつもりだからこっちがイニシアチブを持ってアプローチして行こうか」みたいなビジネスカタカナ英語()(日本語と英語がごっちゃもしくはどちらかにより定説なニュアンスがあるバイリンガルの真似なのかそれから派生したその業界に馴染んでる感なのかエリートである自分の会話が庶民と一線を画すアピール/自己肯定の結晶なのかなんなのかは知らんけど)に意識高い系っていう印象が付いたり、ステイホームってなんやねん!日本人なら日本語使えや!っていうこと自体には、まあうーんって感じやねんけど(ていうかこんなこと↓言ってた人が今度はなんやねんって感じやろけど)
とは言え知らない横文字の心理的距離感って計り知れないなあと感じる今日この頃。理解できる/調べる意欲と時間と余裕がある人はどんどん横文字使って持論を展開していくしわからない/調べる意欲や時間や余裕がない人はどんどん置いていかれる(何かを学ぶのって意欲と時間と余裕が揃わないとできないけど一つでも欠如すると学べないのめちゃくちゃ理不尽やな…)し、でもだからって調べる意欲や時間や余裕がない人が自分の意見を持たないわけじゃないしそれなりにメディアに触れ合うなら偏った情報が耳に入るしそれが真実だと思って発言をする。それがその人の所為じゃないにしろ今のそれなりに若い人(インターネット環境が身近な人間)でもすごく偏った人間がいるのはそういう要素もあると思う。ある程度の動作さえすれば受動的に摂取できるテレビはやっぱり人の思考に影響を与えるやろしそういう人を狙ったズレた報道(例:羽鳥さんの番組の女性専用車報道によって沸いた女性怖いツイート)は直接その人の思考に加担するやろうな〜(腕組み絵文字)
そもそも人権どころじゃなくて明日のご飯のために働いて働き口を増やすために死ぬかもしれない赤ちゃんをバコンバコン産んでた時代に比べて、割といろんなことを考えられる余裕を持つ人が比較的増えた中で、やっぱり男女の人権、子供の人権、労働者の人権、貧困層の人権とか色々なことが目につくようになったりそういうことを話す人が多くてしんどいとか嫌いっていう意見をよく見る気がする。それらを置いといて今まで通り穏便に暮らす方が幸せやんって思う人もいるやろし今までどうりの笑いで何が悪いねんってしがみつく人もよく見るけど、そんな自分は多分社会において強者であり、弱者でもあることを自覚する必要がある。自分には影響ないもんってなってるやろけど色々考えるのは大切やと思うねん。強者の強者は一握りしかいないし、今までがよかったんじゃなくて差別を甘んじて受け入れてた人が声を出してるだけなパターンが多いし、自分が差別される側にいつ陥るかなんかわからんから。まあ差別される可能性がなくても社会で生きる人間なら考えるべきやねんけど。基本的には今は誰もが人権について考えるべきだし考える必要があると思う。
メモ:物事を知って考えることは超大事やけど情報源を間違えたり変な穴に落ちてまうと危険なんよなああ。どっから出てきたん??っていう思想になってしまうし、周りに同じ思想がいないとより一層周りが騙されてて自分だけが真実を知る人間!!!みたいな方向に行っちゃうんよなあ(例:人工地震のくだり)ネットリテラシー大事!って横文字の話をしてる矢先に出ちゃうもんやなあ。(ネットリテラシーはインターネットの便利さと脅威、ルールを理解し、適確な情報を利用して、よりよい情報発信をすることができる能力)
なんせさ、カタカナって便利やん?外国語を音のまま日本語かのように持ってこれるから。でもなんせ意味がぱっと見わからん。Patriarchy(カタカナでどう表現するんかわからんので例として不適切すぎ)はピンとこんくても家父長制って言われるとなんとなくお父さんが偉いんかなー?ぐらいには推測できるやん?毒親とか、相対的貧困とか、そういうのも。世界史より日本史が好きな人はそういうところもあるんかな?うちは世界史派やから知らんけど。ちゃんと意味がわかる日本語に訳すクッションが人権教育を進めるための一歩じゃないかなあと思う。広辞苑って毎年新しい言葉増やしていってはるからこういう最近話題に上がってきてる単語の正式な日本語訳があれば、パッと言われてある程度ピンと来るんちゃうかなあ。だってさ、見てこのなんの意味も為さない検索。
調べへん人はそら何しても調べへんけど、調べよ…か?ってちょっとでも思った人の気持ち全削ぎじゃない?理解しろよ!っていうスタンスはまあわかるんやけど多少の歩み寄りが必要じゃない?
そもそもこういう人権関係の新しい(?)単語が海外では定着してるのにはもちろん教育や政治の問題もあるけど、英語には部首的な感じでラテン語やらギリシャ語から来る単語のレゴみたいなんがなんとなく頭に入ってるから新しめの単語もピンと来るんじゃないかなあ。
これらが大体頭に入ってるのが日本の教育の基礎ならいいねんけど、そもそもこれを音だけとってカタカナに当てはめてるだけやからそこから読み取りにくいし、じゃあ日本の英語教育の語幹について学ぶ部分を強化しまーす!って言っても何年かかるねんって話やん。だったら、日本語訳を誰かが決めれば??って思う。もちろんニュアンスもあるし、誰にも失礼にあたらんような熟考は必要かもしれないけど、日本語訳を公式で作ることで異物感、外来感が減って心理的な距離が詰めれたらちょっと話は変わるんちゃうん?
まあ正直特に性自認やら性的趣向は特に、最終的には理解した上でほっといてくれやねんけど、理解をするっていうステップを飛ばしてしまうと無自覚な差別や偏見や手続き上の難しさが残るから、とりあえずは認知や理解(そのために頭下げる必要は全くないけどこういうものですから。これが常識なのでお見知り置きを。みたいなスタンスでも知ってもらうこと)は必要やと思う。
普段の会話で出しやすい単語に変えることで誤解を解いたり(例:フェミニズムという言葉の意味のズレ)認知度もあげれるし異物感の払拭は遠いどこかで起きてることではなく多少は身近なものに感じられるんじゃないかと思いました。そのまま持ってきてなんで理解せえへんねん?!っていうのは正論でも進歩がなければ意味ないし人権教育も進むんとちゃうかな。(希望的観測?)誰もが出会うであろう、知るべき単語が誰でもが理解できなかったらなんの意味も無さないんじゃないかな。そういういろんなニュアンスや背景を凝縮して公式の和訳を委員会があればいいねんけどなあ、叩かれるかなあ。
あああああああ保険かけまくった自分の文章大嫌い、いろんな人がいるしなあとか全員が同じ環境な訳ないって念頭に置きながら書いてるけど結局それなりに豊かなところから色々決めつけてるだけやしほんま、きしょいな!!!!!!!おわり!!!