水木しげるの貸本「貧乏」時代を救ったのは白土三平だった
水木しげるさんの貧乏時代の話は、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」でも有名です。
「ビビビの貧乏時代 いつもお腹をすかせてた!」 (ホーム社漫画文庫)というタイトルの作品があるぐらいです。
水木しげるさんの手にかかると、貧乏な生活もユーモラスに思えてしまいます。
「ゲゲゲの家計簿(上・下)」では、どれだけ貧乏だったのかが描かれています。
・税務署が水木しげるさん宅を訪れ、申告所得が少なすぎると疑う
・奥様が臨月だがお金がなく入院できず「お前はできるだけ腹をひきしめてくれ」と頼む
・奥様「腐りかけじゃないバナナを食べられる日は、来るのかしら・・・」
などなど、あげたらきりがありません。
水木しげるさんは紙芝居作家から貸本漫画家に転じました。
貸本時代は多くの作品を描いていましたが、出版社がまともに原稿料を支払ってくれません。
奥様との貧乏な生活は、貸本漫画家時代のものです。
貧乏を抜け出すきっかけは、講談社の「週刊少年マガジン」編集部からの執筆依頼です。
あの名作「テレビくん」を、「別冊少年マガジン 夏休みお楽しみ特大号」(昭和40年8月15日)に32ページで描いたのです。
大手版元の講談社の原稿料は、貸本の10倍以上だったといいます。
さらに「テレビくん」は、栄誉ある「第6回 講談社自動まんが賞」を受賞したのです!
「テレビくん」の受賞を推薦したのが、白土三平さんだったのです。
白土三平さんは、同賞の第4回を「シートン動物記」と「サスケ」で受賞しているのです。
「ガロ No373」の白土三平さんと長井勝一さんの対談でこう語られています。
長井「やっぱり三平さんが推薦すると違ってた?」
白土「いやぁなかなかね、他の人が反対しちゃうし、最終的には出版社だからさ。水木さんの場合は俺の推薦通りになったけど。」
水木しげるさんは受賞により、雑誌の注文が舞い込んできます。
一人では描ききれなくなり、つげ義春さんをアシスタントとして雇うほどになりました。
「テレビくん」の雑誌での掲載から10か月後の昭和41年6月15日には、「水木プロダクション」を設立するほどまでなったのです。
水木しげるさんが長年つけていた家計簿も、ここで終わることになります。
白土三平さんとの関係も、また別の機会に書いていきます。