トキワ荘漫画家が育った「漫画少年」(学童社)の発行部数について
伝説の少年漫画雑誌である「漫画少年」。
出版元は加藤謙一が創業した学童社です。
トキワ荘を中心とした漫画家が「漫画少年」の投稿欄に競って応募したのは、「まんが道」(藤子不二雄A)でも描かれています。
「劇画」の生みの親の辰巳ヨシヒロさんも、兄の桜井昌一さんと一緒に投稿していた姿を描いています。
さて、「漫画少年」がどれだけの部数を発行していたかについて気になっていました。
関連する本や資料を読んでいますが、部数の話はあまりでてきません。
学童社を創業した加藤謙一さんが別の出版社で手掛けた雑誌の部数は、よく目にします。
講談社で「少年倶楽部」の編集長に就任した時の部数は28,000部と苦戦していた。
そこで佐藤紅緑の「あゝ玉杯に花うけて」の連載や、田川水泡の「のらくろ」、工作付録によって最終的には100万部を達成したというものです。
終戦後は講談社を退職して、尚文館(現在の芳文社)の「野球少年」創刊に携わり25万部を記録した。
と、いうものです。
「漫画少年」の発行部数について唯一渡した目にしたものは「廃墟の残響 戦後漫画の原像」(NTT出版、桜井哲夫)です。
「『漫画少年』創刊号(二十円)は、宣伝不足からか、二万部刷った雑誌はまったく売れずに多くが返品で戻ってきて、加藤家は寝るところがないほどになってしまう。」
という記述です。
続きもあり、「2号も3号も売れず、23年4月号からやっと売れ始め、取次店や書店が分けてほしいと言ってくるようになったのです」とあります。
創刊号から掲載していた井上一雄の「バット君」が「漫画少年」の人気に貢献したようです。
同書には「バット君」の単行本が「〈はねがとうぶように売れ〉」と書かれています。
さらに、「二年経つと、発行部数も五万部を超えるようになる。」ともあります。
創刊は昭和22年12月ですから、5万部という部数は、昭和25年頃のことでしょう。
廃刊は昭和30年10月です。
手塚治虫の「ジャングル探偵」は、昭和25年11月号より連載を開始しました。
大阪で「新宝島」を爆発的にヒットさせ(40万部ともいわれている)、満を持して東京に出てきた手塚治虫に目をつけ、東京初進出を加藤謙一が果させたのです。
「ジャングル探偵」も連載当時はそれほど人気がなかっとも言われています。
また、「まんが道」では学童社に「漫画少年」の返品の山が描かれています。
藤子不二雄が富山から上京したのは昭和29年です。
学童社に足を踏み入れたのは廃刊の一、二年前です。
伝説の少年漫画誌である「漫画少年」も、最高の発行部数は5万部だったのかもしれません。
部数についての資料が見つけられたら、またブログに書いていきます。