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手塚治虫が泣いた日-学童社(漫画少年)加藤謙一逝去

漫画、アニメの神様である手塚治虫さん。

奥様の手塚悦子さんによると、初めて手塚治虫さんが泣く姿をみたのは、学童社の創業者・加藤謙一さんが亡くなったときでした。

加藤さんと手塚さんの出会いは、昭和25年です。

手塚治虫さんは、昭和21年に漫画家としてデビューします。

「新宝島」(育英出版)を昭和22年に出し、40万部を売る大ベストセラーになりました。

その後も「ロスト・ワールド」や「メトロポリス」といったヒット作を出し、大阪のスター漫画家として、満を持して東京にでていきました。

ただ、東京では簡単にはいきませんでした。

漫画を持ち込んだ出版社では、絵柄について文句を言われたりします。

学童社の加藤謙一さんは違いました。

手塚治虫さんが持っていた「ジャングル大帝」の原稿をみて、「漫画少年」への連載を決めたのです。

二人は、漫画家と編集者だけの関係ではありませんでした。

加藤謙一さんは、手塚治虫さんに手紙を何本も書きました。

手塚治虫さんも、こんなところまで見てくれているのか、と感じりいりました。

加藤謙一さんの四男の丈夫さんはこう言っています。

「ビジネスライクな関係ではなく、すごくいい息子のように見ていた」

悦子さんはこういっています。

「加藤謙一さんのことは、自分にとって『東京のお父さん』だとよく言っておりました。親のように甘えて何でもお話ができたと。手塚が上京する前、学童社は東京でいちばん心が安らぐばしょだったそうです。」

手塚治虫さんは当初、大阪と東京を行き来する生活でしたが、東京では学童社で原稿を描きました。

トキワ荘に入ることになったのも、加藤謙一さんの長男が住んでいてすすめられたからです。

加藤家の家族全員と、付き合いがあったのです。

昭和49年、加藤謙一さんが無くなりました。

訃報を聞いた手塚治虫さんは、泣き崩れました。

葬儀ではなんと、受付を担当したのです。

当時、46歳です。

前年に虫プロが倒産しましたが、「ブラック・ジャック」で完全復活を果たした「神」が、です。

加藤丈夫さんがこう書かれています。

「葬儀の時も、式場に入ってくださいと何度もお願いしたのに、私はここで受付をやるんだと言ってお立ちになっていました。」

手塚治虫さんの人柄がよくわかるエピソードです。

※参考


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