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「少年倶楽部」の名を後世に残した加藤謙一編集長時代の発行部数

「漫画少年」を発行していた学童社の創立者である加藤謙一さん。

故郷・青森での教員から一念発起し上京。

大日本雄弁会(講談社)に入り、1921(大正10)年に「少年倶楽部」の編集長に抜擢されます。

「少年倶楽部」の創刊は1914(大正3)年で、発行部数は3万部だったといいます。

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(創刊号の表紙)

加藤謙一氏が編集長になった時は2万8千部を発行していました。

加藤謙一氏の編集長時代の「年間最大発行部数」が、「『漫画少年』物語 編集者・加藤謙一伝」(都市出版)に書かれています。

著者は加藤謙一氏の四男・丈夫氏です。

「年間最大発行部数」は、基本的には新年号です。

現在もですが、月刊誌は新年号が最も売れるのです。

ここに部数を列記します。

1921年(大正10)6万部
1922年(大正11)8万部
1923年(大正12)12万部
1924年(大正13)30万部
1925年(大正14)20万部
1926年(昭和2)25万部
1927年(昭和3)30万部
1928年(昭和4)45万部
1929年(昭和5)50万部
1930年(昭和6)63万部
1931年(昭和7)67万部
1932年(昭和8)65万部
1933年(昭和9)70万部

1924年に30万分で、翌年に20万部と急激に落ちていますが、「二四年新年号の付録が特に大当たりしたため」とあります。

これだけ急激に部数を伸ばせた理由は、「連載小説」「漫画」「付録」の3点にあります。

連載小説の作家人は、今でも名前を知られている人も多いです。

吉川英治、大佛次郎、佐藤紅緑(佐藤愛子の父)などです。

当時、少年誌にこれだけの作家をそろえるのは難しく、こういったエピソードもあります。

「少年倶楽部」への連載を佐藤紅緑に依頼にいくと、「この俺に洟垂れ小僧の小説を書けってか!~中略~俺は大人が読む小説しか書かないんだ。見損なうな」と怒声を浴びたというのです。

漫画はなんといっても、「のらくろ」にあります。

加藤謙一さんが田河水泡に目をつけた理由は、田河水泡が画家でありながら、落語の台本をアルバイトで執筆していたからです。

絵も落語もかける、つまり漫画もいけるだろう、と考えたとのことです。

素晴らしい編集者としてのセンスです。

そして「のらくろ」の連載が始まりました。

「のらくろ」の人気を表すエピソードがあります。

「のらくろ」が二等兵から一等兵に昇級した際、多くの祝電が読者から寄せられたというのです。

「週刊少年マガジン」に連載されて社会現象にもなった「あしたのジョー」。

力石徹の葬式が実際にお坊さんもよんで行われた、ということを思い出す話です。

登場人物(犬ですが)が現実とリンクするほどなのです。

付録は紙細工ですが、大正、昭和初期に「エンパイヤステート・ビルディング」を作る企画もあったのです。

いい糊や接着剤もない時代だったので「ごはん粒をかまぼこの板の上で割り箸で練ってそれを糊にして」と書かれていたのです。

加藤謙一さんが編集長を須藤憲三さんにバトンタッチした後は、1936(昭和11)年に最高の75万部を発行しました。

「少年倶楽部」の最後は1962(昭和37)年。

1959(昭和32)に創刊した「週刊少年マガジン」と合併するということで、「少年クラブ」(1946年に倶楽部からクラブに改名)は幕を閉じたのです。

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