赤塚不二夫とつげ義春の関係 小松川からトキワ荘以後も
赤塚不二夫さんとつげ義春さんの関係でよく語られるのが、
デビューのきっかけについてです。
赤塚さんが新潟から上京して
江戸川区小松川の化学メッキ工場で働きはじめたのが
1953(昭和28)年、18歳の時です。
「漫画少年」(学童社)に投稿はしていましたが、
デビューはできていませんでした。
化学工場の寮に赤塚さんを訪ねたのが、
つげ義春さんです。
赤塚さんの2歳上なので、20歳での頃です。
つげさんは葛飾区に住んでいて、
赤塚さんと同じく「漫画少年」に投稿していました。
投稿で入選の常連になると、
投稿者の名前と住所が掲載されます。
つげさんが赤塚さんの寮を訪ねたとき、
すでにつげさんは貸本でデビューしていました。
その貸本の出版社・若木書房を赤塚さんに紹介したのです。
若木書房を訪ねた赤塚さんは仕事をもらい、
1956(昭和31)年に「嵐をこえて」で
デビューしたのです。
この化学メッキ工場の寮時代の話が、
「バカボン線友録」に書かれています。
「江戸川区小松川橋下の荒川土手。
僕とつげは、泡を飛ばして、
漫画論を戦わせていた。
昭和三十年ころのことだ。」
ふたりはよくケンカもしました。
会話も書かれています。
『「僕はね、漫才とか落語とかを使った
面白い漫画が描きたいんだ」
「何を言うんだ。そんな漫画はくだらん。
シリアスなドラマ性こそ、
これからの漫画には求められる」
方向性が違うのだから、
話がかみ合わないのは、当たり前だ。
「もう、お前とは話すことはない」
いつも怒って帰るのはつげだった。
でも、翌晩になるとまた
”ケンカしに”やって来る。』
おおくはいない、漫画家仲間だったのです。
青春時代を共に過ごした二人ですが、
1956(昭和31)年に赤塚不二夫さんが
トキワ荘に引っ越してからは、
一度しか会わなかったようです。
『昭和三十一年に僕がトキワ荘に移って、
つげが訪ねて来たことがある。
裸電球一つの部屋で向き合った時、
「お前とは方向性が違う。
もう二度と会わないよ」。
と、言われた。
また翌日来るのかな、
と待っていたらそれっきり、だった。』
二人のあいだに何があったかはわかりません。
つげ義春さんは存命ですが、
赤塚不二夫さんは2008(平成20)年に亡くなりました。
トキワ荘以後にどういった交流があったのか、
もしくはなかったのか、わかりません。
「バカボン線友録」の発行は1995(平成7)年です。
トキワ荘時代から40年ちかくの時がすぎてから
赤塚さんが書いた文章です。
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