本家楽曲と歌ってみたについての持論を軽く述べる
(ヘッダーは拾ってきた画像)
前回のBWリメイクの記事が10000文字をちょっとだけ越えるほどの長文だったので、今回は箸休め的な感じで軽〜く書いていきます。
本当は、メガテラゼロさんが自身の歌ってみた動画を削除した件を含めて真面目に書く予定だったんだけど、それについての色々な意見を見ているうちに、何がより良い意見なのかが分からなくなったので断念…
【結論】
いきなり結論から述べます。
自身が思う持論はズバリ!
「本家と歌ってみたは別領域存在」
です。
つまり、「本家と歌ってみたは比べちゃいけない」ではなく、「そもそも本家と歌ってみたは比較対象になり得ない」なんです。
最近の音楽文化は、派生がものすごいことになっていますよね。
先ほどから挙げ続けてきた『歌ってみた』ですが、それの更なる派生と言えるのが『替え歌』だったりします。他には『音MAD』もインターネットの文化のひとつとして広く認知されるようになりましたね。また、歌とは話が逸れますが、『カラオケ音源』はそれ単体(伴奏に当たる?)だけでも楽しむこともできますし、それと似た例として、ゲームは『BGM』で歌とは違った魅力を作り続けてきました。さらにその派生として、多種多様な音源を用いた『アレンジ』も根強い人気を誇っています。
このように、現代の音楽文化の盛り上がりの秘訣には「派生の存在」が非常に大きいんです。しかし、それらの派生が存在するためには、「本家」となるものの存在が欠かせません。
当然ですが、本家作品が作られる上での苦労と、派生作品が作られる上の苦労は、それぞれ方向性が異なることと思います。
だからこそ、方向性が違う苦労から生まれた作品を同列に扱い、比較することに対して、自分は違和感を感じるんです(二重言葉とは言わないで)。
特に、ボカロと歌ってみたの関係については、ボーカロイドの音声と人間の歌声でまったく別の個性があるのにもかかわらず、それらを比較対象にすることはおかしいのでは?と感じます。
また、ボカロにおける「本家こそ至高」という論も、ボカロと歌ってみたとで表現できるものが違うことを考えると、派生作品の存在価値を弱めてしまうよくない言葉なのかもしれない、と感じました。もっと互いの良さを褒めあえる世界だったらなあ…
…といったところでいい感じにまとまったと思うので終わるか。