ユートピアとアクチュアリティの狭間で――ダムタイプ『S/N』についてのノート

はじめに

 『S/N』は、京都芸術大学の学生らによって1984年に結成された芸術家グループ「ダムタイプ」によって、1994年から1996年にかけて日本国内のみならず世界各国で上演されたパフォーマンス作品である。ダムタイプは現在も活動を続けており、そのメンバーには高嶺格や高谷史郎、ノイズミュージシャンとしても有名な池田亮司などがいる。『S/N』はダムタイプの全活動のなかでも飛びぬけて人気のある作品であり、エイズやセクシュアリティ、マイノリティをテーマにしている。メンバーの一人であった古橋悌二のHIV感染発覚を機に制作された。彼は公演期間中の1995年にエイズによる敗血症のため亡くなった。

 私は『S/N』の記録映像を3度観た。1度目は学部生であった2015年に東大本郷キャンパスで、2度目は労働者になった2016年に学習院大学で観た。ダムタイプの他のパフォーマンス作品はほとんどがソフト化されているのだが、この作品は音楽の版権の問題などでいまだにソフト化されておらず、1年に1度か2度、東京や関西の大学や美術館、ギャラリー等で行われる上映会に参加するしか、観る方法はなかった。また、他のソフト化されているほかの作品が「映像作品」としてパッケージングされているのに対して、『S/N』のそれはあくまでもパフォーマンスの「記録映像」である。しかし、その人気と希少性のために、上映会はいつも予約開始からものの数分で定員に達するほどで、本郷キャンパスで観られたのはなんとか当日券を手に入れられたからだし、学習院大学のイベントは申込不要だったからだ(そのため超満員だった)。新型コロナ禍前の2019年には東京都現代美術館で「ダムタイプ展」が行われ(この展覧会はダムタイプの旧作のみならず新作も展示された。作品はともかく、キュレーションの問題は感じられた)、展覧会の期間中に何度か上映会も行われたのだが、例によってすぐに予約が締め切られてしまった。
 この度、4月26日から5月9日まで、オンラインで無料配信されたのは、『S/N』という作品を観る機会を上のような制限から解き放つもので、大英断だったと言えよう(注1)。私も4年と7か月ぶりの、3度目の視聴の機会が得られたわけである。

 この作品は演者同士の対話、モノローグ、ダンス、リップシンク、寸劇、映像やテキストのプロジェクション、音楽、などからなる複合的なパフォーマンスである。90分ほどあるこの雑多なパフォーマンスの内容を最初から最後まで逐一文章で説明するのも興が削がれるので、適宜その内容に触れながら批評を試みたい。これは『S/N』の批評であるが、同時に現在における『S/N』の受容のされ方ヘの批判であり、私が初めて『S/N』を視聴したときに抱いた印象ヘの批判でもある。
ただし、私は『S/N』に関する主要なテキストのすべてを参照しているわけではない。竹田恵子氏の「ダムタイプによるパフォーマンス『S/N』(初演一九九四年)における引用の様態と作品構造」(2014)は参考にした(注2)が、昨年出版された、同氏の『生きられる「アート」――パフォーマンス・アート《S/N》とアイデンティティ』を読んでいないし、五野井郁夫氏の「『S/N』――連帯を夢みる身体」(2018)なども読んでいなければ、『S/N』で引用されるミシェル・フーコーの『同性愛と生存の美学』も読んでいない。したがって、この文章は不十分なのであって、草稿に過ぎない(だからこそnoteにあげるわけであるが)。『S/N』論をいずれ書くかどうかはわからないが、この文章はそこに至る思考の過程として読んでいただければ幸いである。


本エッセイの目的

 『S/N』をただただ素晴らしいパフォーマンスであるともろ手を挙げて称賛することは簡単だ。事実、この作品は素晴らしい。メンバーたちが何らかの「役」ではなくそのままの人間として登場し、相当な切実さをもって語り、そして生身の身体をさらすその所作は、痛々しくも美しい。電子音を中心に構成されたリズミカルな音楽をバックに、ハイテクな舞台装置の上で繰り広げられるダンスは格好良い。さらにはおかしみと悲しみが同時にやってくる。パフォーマンスの断片一つ一つが、叫ばれる言葉の一つ一つが、観るものに居心地の悪さを感じさせながらも、強度をもって迫ってくる。
 素晴らしい作品だ。だからこそ危険でもある。上演から四半世紀が過ぎて、いまだに偏見が根強いとはいえ、いくぶんかはLGBTフレンドリーな言説を公然と叫ぶことができるようになり、現行の社会体制のなかで可能な限りの個人の自由を目指す「リベラル」という集団が形成されつつある現在(断わっておくが、私は「リベラル」ではなく左翼だ)、『S/N』はある意味で分かりやすくなってしまっている。あるいは人間解放のバイブルとして、『S/N』は、なかば神格化されてしまっている。しかし、物事を単純化してしまうこと、シグナルとノイズを分離してしまうこと、それこそ『S/N』が避けようとしたことなのだ。実際は『S/N』という作品は単純なメッセージに還元すべきではない。『S/N』には矛盾がある。そしてその矛盾こそが『S/N』を駆動するのであり、私たちは『S/N』のなかに、その矛盾をこそ見つめなければならない。
 したがって、このエッセイではまず『S/N』視聴者の大多数が行うであろう(そして私もはじめはそうだった)読解についてまず検討していく。次に、それとは異なる、あるいは矛盾する読解を試みる。この二つの分析がなされた後、総合が行われる。最後に、それでも残る『S/N』の問題点に対し、批判が加えられるであろう。

 ユートピア的読解

 まず、ひろく一般的に行われるであろう読解から始める。私はこれを「ユートピア的読解」と名付ける。この読解は『S/N』を、私たちを規定するあらゆる意味付け、偏見が消滅し、それにともなって現実のヒエラルキーも解体された、差異のみで構成されるユートピア的世界への渇望を表現している作品として受け取るものである。こうした読解は、以下のような諸パフォーマンスから導かれる。

ラベリング・抽象化への問い
 まず、個々人へのラベリング、抽象化が問いに付される諸々のシーンである。冒頭の、対話のシーンの一つ目(以下、対話シーン1)に登場する3人の人物(古橋を含む)の上着には、それぞれの人物の性質を示すステッカーが貼られている。たとえば、 “MALE” “HOMO SEXUAL” “HIV+” “HIV-” “BLACK” “AMERICAN” “JAPANESE” “DEAF” などである。彼らは3人ともがゲイであり、一人はアメリカ国籍の黒人(ピーター)、一人は聾者(アレックス)、そしてもう一人、古橋はHIVの陽性者である。このシーンの後に、音楽をバックにダンスなどの身体パフォーマンスが行われるパートが挟まれ、再び対話のシーン(以下、対話シーン2)がある。このパートの最後、ドラァグクイーンのショーを行ったあと、舞台装置の上から後ろへダイブする古橋の服に貼られているステッカーは “PEOPLE” ただ一つとなっている。
 中盤では入国審査を受ける女性の寸劇が挿入されるのだが、下手な英語で通り一遍の応答を終えてもまだ解放されない様子のその女性は、再びパスポートを提示してこれまで訪れた国々のページを見せて説明する。そして “I don’t need this page.”と言って一枚一枚ページを破っていく。さらには自分の国籍や性別等が表示されているページさえも、同様に “I don’t need this page.” と破り捨てるのだ 。パスポートのすべてのページを破り捨てたあと、彼女は“This is My eye, my nose, my teeth……”などと言いながら目や鼻や歯、手、足など、自分の身体の各部分をカメラに向けて示していき、それが終わると “I have nothing to show you anymore.” と述べる。
 ふたつの対話のシーンに挟まれるダンスのパートと、終盤のパートにおいて叫ばれる、パフォーマーたちの言葉も印象的である。それは以下のようなものだ(漏れもあるかもしれない)。

 私は夢見る 私の血が消えることを    I dream my blood will disappear
 私は夢見る 私の性別が消えることを   I dream my gender will disappear
 私は夢見る 私の人種が消えることを   I dream my race will disappear
 私は夢見る 私の国籍が消えることを   I dream my nationality will disappear
 私は夢見る 私の恐怖が消えることを   I dream my fear will disappear
 私は夢見る 私の常識が消えることを   I dream my common sense will disappear
 私は夢見る 私の価値が消えることを   I dream my worth will disappear
 私は夢見る 私の権利が消えることを   I dream my rights will disappear
 私は夢見る 私の義務が消えることを   I dream my duty will disappear
 私は夢見る 私の権威が消えることを   I dream my authority will disappear
 私は夢見る 私の権力が消えることを   I dream my power will disappear

 これらの言葉は主に日本語で叫ばれ、英語の方はテキストが舞台装置に映し出される。ここでもやはり、個々人に付されるア・ポステリオリな性質あるいは負わされる社会的諸関係が問題とされ、それらの消滅が願われる(しかし、この並びのなかで「恐怖」だけは異質であるように見える)。

ラブソングへの問い
 対話シーン2では、「セックス」や「ラブソング」が話題となる。現在のラブソングはどうであって、未来のラブソングはどうなっていくのか。ピーターからの問いかけに、舞台装置の上でドラァグクイーンの化粧をしながら古橋が答える(化粧をしている古橋のバストアップの映像が、舞台装置に大きく映し出されている)。これまでのラブソングは、男が女に「君はきれいだ、僕のものになって」とか、女が男に「あなたが好き、あなたのものになりたい」というのが定番であり、そしてゲイやレズビアンも、そうしたパターンを踏襲しようとしていた、と(しかしこれは本当か?)。それに伴って古橋も、コンドームを使わないセックスを「愛」と等置し、その無防備なセックスによってHIVに感染してしまった、と(注3)。ここでは異性愛規範と同性愛へのその適用が問いに付されている。

「裸」の頻出
 また、この作品にはしばしば「裸」が登場する。対話シーンに挟まれたダンスパートでは、舞台装置に様々な男女の裸の胸部の映像が映し出されるし、照明の技術で局部と顔が隠された全裸のパフォーマーが舞台装置上に何度か登場する。また、終盤のダンスパートでは、パフォーマーたちが衣服すべてを素早く脱ぎ捨てたあと舞台装置上から後ろにダイブする場面がある。その後、ドラァグクイーンメイクで全裸の古橋が救命ボートに乗って登場し、リップシンクで「アマポーラ」を歌う。そして作品の最後には、メンバーのブブ・ド・ラ・マドレーヌが全裸で出現し、女性器のあたりから万国旗をするすると出していく、というパフォーマンスを行うのである。
対話シーン1の、衣服に貼られたステッカーのことを考慮すれば、衣服は個々人に貼られるレッテルを意味しており、衣服を脱ぐことはそれをはがすことであると解釈することができるだろう。

シグナルとノイズ
 『S/N』のタイトルは、電子工学などで使われる「S/N比」に由来する。つまり、シグナル/ノイズである。この対比ははっきりとした形で作品中にあらわれる。それが顕著なのは終盤のシーンである。このシーンはブブ・ド・ラ・マドレーヌとアレックスの掛け合いであり、しばしばアレックスの聞き取りにくいモノローグが挟まれる。

 あなたが何を言っているのかわからない。でもあなたが何を言いたいのかはわかる。
 私はあなたの愛に依存しない。あなたとの愛を発明するのだ。
 これは世の中のコードに合わせるためのディシプリン。私の目に映るシグナルの暴力。

 同じ構文が、「愛」の部分を「性」「死」「生」に変えながら、繰り返される(「死」「生」の時は、発明されるのは「あなたとの」ではなく「私の」になる)。この繰り返しの後、最後に述べられるのは次のような言葉だ。

 あなたの目にかなう抽象的な存在にしないで。私達をつなぎ合わせるイマジネーションを、ちょうだい。私の体の中を流れるノイズ…読解されないままのものたち。今まであなたが発する音声によって課せられた私のノイズ。今、やっと解放します。

 そしてアレックスは補聴器を外し、それをマイクに近づけて甲高いハウリングノイズを響かせる。「シグナル」が暴力として、「ノイズ」が「読解されないままのもの」であり、解放されるべきものとして表現されているのがわかる。対話シーン1では、アレックスは「普通の人の口の動きとか体の動きをまねて」(「普通」ってなにかわからへんけど、と前置きをしつつ)発声しているのだと、古橋が説明していた。しかしここでアレックスは、自分の「目に映るシグナル」=「普通の人の口の動きとか体の動き」を真似することで抑圧していた「ノイズ」を解放するのである。
 この次のシーンでは、白いシャツを着た二人の男女が、ナイフでお互いの腕を切り(本当に切っているわけではない)、傷口を合わせる。前のシーンでアレックスが「私の体の中を流れるノイズ」と言っていることから、このシーンは血液がノイズに見立てられ、それを直接に交換しているシーンとして、つまり、あらゆる意味付けから解放された人間同士の直接の交流のイメージとして見ることができる。

 以上のような諸シーンから、『S/N』という作品は、理想的な世界への憧憬を表現していると読解することが可能だろう。つまり、性別や人種、国籍などといったラベルとしてのシグナル、あるいはマジョリティが普通のものとして享受している規範としてのシグナル、がすべて取り除かれた、差異=ノイズだけの世界。多様な「愛」の世界。 “PEOPLE” の世界。具体的な形は与えられていないものの、素晴らしい世界であるに違いない。

 こうした読解が、現在『S/N』の記録映像を視聴する人々の大部分を占めるものであろうし、私が初めて視聴したときに抱いたものであった。しかし、『S/N』からこうした読解しか引き出せないならば、それは危険である。何故ならば、それは現実の力関係を覆い隠してしまいかねないからだ。
同性愛差別への反対や、同性婚を求める言説のなかで、とりわけ「リベラル」な主張は以下のようなものだろう。つまり、「異性愛者であれ同性愛者であれ、人を愛するということにおいては何も変わらない。同じ人間である」というものである。しかし、ここで言われる「人間」とは何なのだろうか。それは結局、異性愛を中心とした価値観で生活するマジョリティのことにほかならず、同性愛者も同じ人間であると主張することは、マジョリティの価値観への包摂を意味するのではないか(注4)。もちろん、ダムタイプはここで「人間」の語ではなく “PEOPLE” の語を採用しているのであるが、あらゆる差異を包摂する単一の同一性を設定することが、何らかの規範化作用を伴ってしまうのは避けられないのかもしれない。ときに「多様性」という言葉は同一性の押し付けとして機能してしまうのかもしれない(注5)。
 あるいは、差異のみの世界が実現したとして、そこで差異は差異として認識されるのだろうか、という疑問も湧き上がる。そこに主体は存在するのか。差異は言語化不可能になり、ノイズは抽象化不可能になる。逆説的に、あらゆる差異はひとつの同一性に、ノイズはひとつのシグナルへと転化する。血液の交換のイメージとも相まって、ここに、『S/N』と同時代のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」を想起してしまうのは私だけではあるまい。


アクチュアリティ的読解

 したがって、今日において『S/N』を鑑賞するときには、上記のような読解とは別の読解も試みられなければならないし、実際それは可能である。『S/N』はけっしてユートピアを提示するだけにとどまってはいないのだ。『S/N』が提示するもう一つのもの、それはアクチュアリティである。HIV/エイズの話題が当時有していたアクチュアリティではない。現在も続く、同性愛のアクチュアリティである。
 上に書いたように、ふたつの対話シーンに挟まれるダンスパートと、終盤のパートでは、様々な抽象的規定の消失への願いが叫ばれる。しかし、注意しなければならないのは、彼らはここで「性別genderが消えること」を夢見ていても、「セクシュアリティが消えること」は夢見ていないということである。セクシュアリティ、すなわち性のありようと、行為としてのセックスは作品を通して全く否定されておらず、むしろ全力で肯定されているのだ。

 また、『S/N』はシグナル化の暴力性を告発する一方で、シグナル化を排除してはいない。アレックスの言葉「あなたが何を言っているのかわからない。でもあなたが何を言いたいのかはわかる」。これはひとつのシグナル化ではないだろうか。もちろん、このセリフが聾者であるアレックスのセリフであるということは考慮に入れなければならないが、言っていることはわからなくとも言いたいことがわかるというのは、表現の全体=ノイズからその意味=シグナルを抽出していることに他ならない。シグナル化なくして意味付けは不可能である。それが抑圧的なものにせよ、主体的なものにせよ。重要なのは主体的なシグナル化なのである。
 『S/N』では「裸」が頻出すると書いた。それが、あらゆる意味付けから解放された状態を表現している、と。しかしその逆に、「飾り立てること」も本作において重要である。つまり古橋が自身にドラァグクイーンのメイクを施し、最後までそれで通すことがそれである。 “HOMO SEXUAL” のステッカーを外す一方で、現実のゲイカルチャーは決して否定しない。また、男女という二項は前提に置きながら、女性性の誇張という、シグナルの過剰化によって、その二項の枠組みを変化させる(注6)。

 おそらくダムタイプにとって、同性愛は「リベラル」が考えるようなものではない。つまり、「愛する対象がたまたま同性であったというだけ」の話ではない。同性愛者であることには積極的な意味がある。それは、自身がゲイであることを公言していたフランスの哲学者ミシェル・フーコーのテキスト『同性愛と生存の美学』を引用していることからもわかる。

 われわれは懸命にゲイになろうとすべきであって、自分はゲイであると執拗に見極めようとすることではないのです。同性愛という問題の数々の展開が向うのは、友情という問題なのです。
 彼らは、いまだに形を持たぬ関係を、AからZまで発明しなければなりません。そしてその関係とは友情なのです。言いかえるならば相手を喜ばせることができる一切の事柄の総計なのです。
 私は、こうしたことが同性愛を「当惑させるもの」にしているのだと思います。性行為そのものよりも、同性愛的な生の様式の方が遥かに。法や自然に適合しない性行為を想像することが、人々を不安にするのではありません。そうではなくて、個々の人間が愛し合い始めること、それこそが問題なのです。制度は虚を突かれてしまいます。

 「懸命にゲイにな」ること。フーコーにとって、そしてダムタイプにとって、ゲイはたんに同性を性愛の対象とすることによって規定されるものではなく、実存的なカテゴリーである。つまり、異性愛の規範から全く外れたその性行動とそれに付随する文化の実践こそが重要なのである。対話シーン2において、古橋ははじめは異性愛の規範に囚われていた、と語っていた。初めてのパートナーとのセックスの話であるが、しかしそのあと「100人くらいとセックスした」と、こともなげに語るのである。憶測でしかないが、これはなにも100人と付き合ったという意味ではないだろう。おそらくは「発展場」での見知らぬ相手とのセックスの数が入っている。「発展場」という異性愛規範とはかけ離れたゲイカルチャーを受け入れることで、古橋は「懸命にゲイにな」っていったのであろう。これは「人として人を愛する」などという脱-性化された行為ではない。ここではゲイというアイデンティティが主体的に引き受けられているのである。

 主体的なシグナル化というテーマは、そもそも『S/N』が「言葉」を多用しているという事実からも導き出される。ダムタイプはその名前の一部であるDumb(口のきけない)からわかるように、そもそも「セリフの排除」というのが一つの特色であった。それが『S/N』において覆され、むしろ多弁と言えるほどの作品になっているのは、言葉という思考のシグナル化の手段を決して軽視しても敵視してもいないことの証左だと言えるだろう。


 したがって、『S/N』という作品には二つの軸がある。一つは現実の諸関係から切り離され、人間同士が直接に交流することが可能になった、差異=ノイズのみで構成されたユートピアを思い描く軸である。もう一つは現実の諸関係に根差し、その中で自身に課されたシグナルを主体的、実存的に引き受けて闘争する、アクチュアリティの軸である。一方ではノイズの海に埋没することが理想化され、他方ではシグナル化が不可避のこの世界における抵抗の仕方が直視される。ここには大きな断絶がある。後者から前者への移行はただちには導き出され得ない。しかし、重要なのはこのどちらを取るかということではない。重要なのはこの二つの軸の間に立つこと、その境界線上で踊ることなのだ。理想の世界を夢見ながら、それでもそこに逃避してしまうのではなく、現実の諸関係のなかで戦術を練ること。あるいは、生存のために現実的な手段を講じながらも、決して近視眼的にならず、理想を捨てないこと。ゆえに、タイトルの『S/N』、ここではこの『/』、スラッシュこそが重要なのだ。


「愛」が隠蔽するもの

 しかし、このようなシグナルとノイズの脱構築的な読解、ユートピアとアクチュアリティの弁証法的読解だけでも不十分だ。同時に『S/N』が語っていないこと、ないし覆い隠していることにも目を向けなければならない。 『S/N』は性と愛について私たちに語りかける。しかし、ここでの「愛」とは何だろうか。ダムタイプが語る「愛」は「性」と一致するとまでは言わないまでも、少なくとも「愛」は「性」とセットである(「Making loveとLove songのLoveは同じLove」というピーターのセリフにもそれがあらわれている)。「愛」がなくともセックスは可能だが、セックスがなければ「愛」はない、というわけだ。まるで、「愛」という言葉を使わなければ「性」は肯定されえない、と思っているかのようだ。未来のラブソングについて語るのはおおいに結構であるし、「あなたとの愛」を「発明」するという主張もとても意欲的だ。しかし、そこで語られる「愛」の狭さが問題だ。つまり、『S/N』で語られる「愛」に内実はほとんどない。「性」だけで十分なのだ。
 とはいえ、ここで「愛」について語る技量は私にはないし、その必要もない。ここではただ『S/N』において「愛」という言葉が隠しているものだけを示せば十分であろう。「愛」が覆い隠すもの、それは「欲望」である。奇妙なことに、『S/N』ではさまざまなことが語られるものの、そこに「欲望」という言葉は一度も出てこない(はずだ。今すぐに確認を取るのは難しいが)。アンチ・フロイトということなのだろうか。しかし、「性」について語るには、とりわけ「同性愛」について語るには、「欲望」の次元を経由しないわけにはいかない。たとえば哲学者の千葉雅也氏は次のように述べる。

 フロイトが論じたように人間のリビドーは可塑的なので、性愛(生殖ではなく)の対象は同性でもあり得るし、他の動物などになる場合もあるが、根本には生殖本能があり、セクシュアリティの多様性は生殖本能の変奏なのであって、ゆえに非ストレートのセクシュアリティは、根源的などうしようもなさを表す性別二元性との折衝、戯れ、抗争を続けることになるだろう。最たるどうしようもないものとしての性別二元性が前提としてあるからこそ、通常の異性愛ではなく同性にこだわるというこだわりが意味を持つのであり、また他方の性に転換するというトランスの欲望があるのである(注7)。

 私は精神分析には疎いのでこの引用部分に付け加えられることなどほとんどないのであるが、ともかく異性愛と同性愛では大幅に異なる欲望の流れがあるということである。こうしたことを考慮しないならば、またしても同一性に囚われてしまうだろう。上で「人間」という言葉のもつ規範化作用について言及したが、「性」とともに語られる「愛」もまたそうなのだ。これを避けるためには、「愛」ではなく、むしろ「欲望」という言葉こそが使われるべきであったのだ。もっともこの批判は、『S/N』が引用したフーコーの言葉にもそのまま向けられるであろう。フーコーは「個々の人間が愛し合い始める」(仏語原文は確認していないが、これが直訳だとするならば)、ではなく、「個々の人間が欲望し合い始める」というべきだった。
 同性愛に愛はない、と言いたいのではない。そうではなく、異性愛も同性愛も同様に「欲望」の次元で考えられなければならない、ということだ。愛は存在しない、と言いたいのではない。愛は存在する。しかしそれはセックスとは別の次元にある。ゆえに、「性」を「愛」で語ることは欺瞞であり、欲望の隠蔽である。セックスは否定されなければならない、と言いたいのではない。そうではなく、セックスは欲望から来るのであり、欲望は欲望として肯定されるべきだ、ということである。


おわりに

 本稿では、不十分ながらも『S/N』の読解を試みてきた。検討されていない問題はまだ残っている。たとえばフーコーの思想と『S/N』の思想の差異、セックスと友情についての問題などである。また、「欲望」についての議論もまったく不十分である。しかし、いくぶんかは今日『S/N』を視聴するときに考えなければならないことについて提示することができたのではないかと思う。


注1:今回の配信は、「ノーマルスクリーン」という団体の企画であった。以下がそのウェブサイトのリンクである。
http://normalscreen.org/events/lifeteiji
注2:竹田恵子「ダムタイプによるパフォーマンス『S/N』(初演一九九四年)における引用の様態と作品構造」、『演劇学論集 日本演劇学会紀要』58巻、2014年、73-89頁。
注3:いうまでもないことだが、当時のHIV/エイズ認識は、セックスの道徳との強い連関のなかにあった。多人数とのセックス、外国人とのセックス、そして、同性愛者であること、とくにゲイであること、すなわち「逸脱した」セックスとHIVの感染が結びつけられ、こうした行為は非道徳的なものとされたのである。対話シーン2でも、HIV/エイズとともに流通する言説が問題となる。HIV/エイズにともなう「言葉が感染する速さ強さのほうが、ウイルスの感染するパワーよりも強いんちゃうかな。(中略)言葉やイメージから自分を守ることはできますか? あの、感染者でも、そうでない人でも、それらから逃げることはできない」というピーターの言葉にそれが示されている。
注4:「人間」という言葉が持つ排他性については、フェミニズムにおいても議論されてきた。清水晶子「フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」、伊藤邦武他編『世界哲学史8――現代グローバル時代の知』ちくま新書、2020年、pp.106-111、に、その歴史が簡潔にまとめられている。
注5:こうしたユートピア的読解は、『S/N』上映会にともなうアフタートークによっても助長されているのかもしれない。たとえば、東大本郷キャンパスでの上映会では、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ氏が「マイノリティ」という言葉をフラット化するような発言をしていた。この日本社会においては、「日本人」「ヘテロセクシュアル」「健常者」「高学歴」「高収入」の「男性」こそが、最後まで解放されずに残る「マイノリティ」である、と。以下の東大新聞オンラインのページを参照のこと。
https://www.todaishimbun.org/dumbtype0722/
注6:メモ。この辺りはジュディス・バトラーなどをちゃんと参照することが必要だろう。
注7:千葉雅也「霊的世俗性――フーコーと『肉の告白』論」、『文学界』2021年5月号、290頁。

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