『僕は偶然その曲を耳にする』
夏になると毎年、どこかできまって耳にする曲がある。自ら聴こうと思っているわけではないんだけど、偶然ふと耳に止まる曲だ。
今年は、今日、うちの奥さんと行ったカフェでクリームソーダを飲んでいたら、偶然その曲がかかった。
ああ、今年も聞けたなぁ、と少し安堵する気持ちでその曲を聞いた。僕にとっては夏の風物詩のようなものだ。
その曲とは『イパネマの娘』のことだ。ボサノバの代表的な曲で、世界で二番目にカバーされた曲だと言われている。(ちなみに一番はビートルズの『イエスタディ』)だからオリジナルを聴くことはほとんどなく、毎年聴くのは誰かがカバーしたものだ。
ここで簡単にこの曲を説明すると、ブラジルのイパネマ海岸にある店で、飲んだくれていた中年の作曲家と作詞家が、偶然目にした美しい少女への思いを歌ったものだ。
中年オヤジが美しい少女へなんて、普通に考えたらおかしい。ただこの歌詞が素晴らしいのは、美しい少女が決して自分のものにはならない、と嘆く中年オヤジの歌だからだ。
切なさと言ってしまえば簡単すぎるが、誰にでもある決して手に入らないものへの憧憬は、美しければ美しいほど悲しく、悲しければ悲しいほど美しいからだろう。
僕が初めてこの曲に出会ったのは、二十歳のときだ。大学の英語の授業で翻訳することになったのが、『イパネマの娘』だった。もちろん本当のオリジナルはポルトガル語で、僕の訳した英語版とは若干歌詞が違うらしいが、そのスピリットというか本質は同じだ。
そして、若かったときの僕はその歌詞の意味を訳せても、心を投影させることはできなかった。
だって自分が若くて何でもできると思っているのだから、美しい娘がいたら、取り敢えずアタックするだろう。指をくわえてただ見つめていることはない。
でも僕も歳を重ね、少しずつだが、その歌詞の意味を理解するようになった。手に入れようともがいたのに、するりと手から抜けていったものの多さが僕にそう思わせたのだ。
以前、僕の担当編集だった男は、カフェで打ち合わせをして、美しい女性がいると、目を伏せていた。
自分が手に入らない美しい女性を見ると悲しくなるからだそうだ。
だが、僕はどうかと言うと、美しい女性から目をそらすことはない。手に入らないものの美しさよりも、すでに持っているものへの大切さを知っているからだ。
別の言い方をすると、手に入らないものへの執着は僕を不幸にするし、自分がすでに手にいれているものの素晴らしさを再発見することが、自分を幸せにすると経験からわかっているからだ。
しかしそうは言っても、僕だって美しい女性を見たら、想像することはある。
僕がまだ若くて結婚していなかったら、あんな女性と付き合ってみたい、ああでももうそれは出来ないんだな、と。
すると、うちの奥さんが僕にこう言ったことをいつも思い出す。
「たとえあなたが若くて私と結婚していなくても、あんな女性はあなたには振り向きもしないわよ、そうだったでしょ」と。