『旅はうまくいかない』⑱
チェコ編⑱「旅はまだまだ終わらない」
ショッピングモールに大人のおもちゃ屋さんがあった話をすると、P君は声を上げて笑った。
時刻は午後八時をまわっていた。ホテルの地下にあるレストランで僕らは食事をとっていた。三人は同じようにカツレツを注文していた。他にサラダやビールまでついている豪華なものだ。
よく考えると、これまでのチェコ旅行で一番のご馳走だった。これらはすべてアエロフロートからのおごりだ。これなら遅延も悪くなかった。
「僕が眠っている間にそんな所に行ってたんですね。すごい好奇心ですよね」とP君は感心して言った。
「いや、いや、この人のはそんないい物じゃないからね。ただスケベなだけよ」と妻が混ぜかえす。
「P君はこっちのサウナに行ったことあるの?チェコって混浴なんだよね。俺なんて二回も行っちゃったよ」と僕は自慢した。もちろん自慢することではないのだが。
「サウナ専門の店には行ったことはないんですが、僕の通っていた大学やジムではサウナだけじゃなくて更衣室も男女一緒だったんです。初めて入ったとき、女の子がいるから更衣室を間違えたかと思いましたよ」
「こっちの人って裸でも堂々としてるよね」と僕は言った。
子供の頃からこういう環境にいれば、大人になっても変な意味で異性の裸に興味を持たないように思えた。隠すからかえって見たくなる心理だ。
「僕も行けばよかったな、プラハのサウナ」とP君は残念そうに言う。
「また来ればいいじゃない」
サウナのために来るとは思えないが、P君はこの国にたくさんの友達がいるはずだ。そのことが羨ましく思えた。僕らのようにたった一週間の旅行ではそこまで友達を作ることはできない。いや違う。こうしてP君と仲良くなれたんだから、そう悲観することもないかもしれない。
今日半日P君といただけなのに、まるで旅の間中ずっと一緒だったような錯覚をするほどだ。
P君は本当に何でもかんでも僕らが聞いたことに答えてくれた。
P君がハーフだと言うこともあって、お父さんとお母さんの話に自然となった。P君のお父さんは、若い頃に日本にやってきたそうだ。ずっと新聞販売店で住み込みの仕事をしていたらしい。そこにアルバイトに来ていたのがP君のお母さんだった。
「でもさ、一緒に働いていたからって、恋に落ちないだろ」と僕は訊いた。
「それがまた面白いんですよ。ある日、お母さんが風邪をひいて仕事を休んだとき、お父さんが心配して代わりに新聞を配達してあげたらしいんです」
「優しいんだね、お父さん」
「当時、お父さんは日本に来たばかりで、ほとんど日本語ができなくて、お母さんがとっても貧乏な家庭の娘で可哀そうだと思っていたらしいんです。休んだらお金がもらえない、代わりにやってあげよう、そう考えたんです。だって若い女の子が新聞配達なんてしないじゃないですか」
「じゃあ、なんでお母さんは新聞配達のアルバイトをしていたの?」
「お母さんは大学の山岳部に入っていまして、山登りの訓練のためにアルバイトをしてただけなんです」
「それはとんだ勘違いだね」
「そうなんです。でも、お母さんはそのお父さんの優しさにビックリして付き合うことになったんです」
「その勘違いからP君が生まれたんだ」
人の縁というのは不思議なものだった。こうやって命が繋がられていくことこそが奇跡のように思えた。
食事を終えると午後十時になっていた。空港のファーストフードで四時間、ホテルのレストランでさらに二時間も話をしたが、まだ僕らは話し足りなかった。
「もし良かったらさ、俺たちの部屋に来ないか、ラーメンパーティーをしよう」と僕は提案した。
ラーメンパーティーと言うのは、日本から持ってきたインスタントラーメンを一緒に食べることだった。きっとP君は日本の味に飢えているはずだから、喜ぶと思ったのだ。
「いいんですか、食べたいです。カップラーメンなんてずっと食べてないですから」
P君はそう言って、僕らの部屋にやってきた。
チキンラーメン、醤油ラーメンにキツネうどんがまだ僕のスーツケースの中にはあった。チェコの食事が美味しくてほとんど持ってきた物を食べていなかったのだ。
「どれにする?」
「キツネうどんがいいです」とP君は言った。
僕がショッピングモールのスーパーで買ってきた水を取り出すと、
「大丈夫です。自分でやりますから」とP君は言った。
とにかく礼儀正しいのだ。あまりにもキチンとしているので、どうしてなのか、と聞かずにはいられないほどだ。するとP君は自分の生い立ちに関係あるのだと言って話し始めた。
「学校でイジメられないために、ずっと野球部でもキャプテンをやったりしていたんです」
P君は長い間、韓国とのハーフであることを自分自身でもよく思ってはいなかったようだ。
学校の授業で韓国の話が出るとそれだけで動悸がしたそうだ。得に子供時代は彼の出自にとやかく言う奴がいた。そんな奴に負けないように誰よりも努力したらしい。なんだか悲しくて腹の立ってくる話だったが、そのことでP君がより強くなってくれたことが嬉しかった。
「こんな言い方はおかしいかもしれないけど、P君が日本の普通の大学生じゃなくて、韓国と日本のハーフであることが、俺にとってはすごく魅力的に思えるんだ」と僕は言った。
その言葉に嘘はなかった。僕はP君が韓国と関係あることを気にしないとは言わない。むしろ僕と違うからこそ尚更関心があるのだ。
「P君は将来どうするの?」と僕は尋ねた。
「教育に携わりたいんです」
「教師になるの?」
「そうですね。でももっと社会を経験してから、教師になるつもりです」
「企業に勤めたりするのかな」
「それも経験したいんですけど、もう一度チェコでプロ野球の選手にもなりたいんです」
「いいね、それ!絶対に応援にいく」と妻が言った。妻のことだ、絶対に行くに違いない。もちろん僕も一緒だ。
「こっちのエージェントはいい加減な人が多いんで、僕がエージェントになって日本の野球を輸入してもいいですからね」
P君は教育者にしておくには勿体ないほどのバイタリティーとアイデアを持っていた。日本の野球経験者は、日本ではプロになれなくても、チェコやヨーロッパにくれば十分に力があるというのだ。その技術を学校を卒業してしまって終わりにするのはもったいない。しかしその橋渡し役がいないのだ。そこで自分がやろうとまで考えているようだった。
「君は面白い男だね」と僕は言った。P君といると本当に楽しいのだ。
きつねうどんが出来上がると、P君は嬉しそうに箸を手にとった。まずスープを飲んだ。
「ああ、これです。これ!思い出しました。日本の味だ」
そして次にうどんを食べる。ずるずるとすする音がホテルの部屋に響く。
「もう泣きそうに美味しいです」
それを聞いて僕らも泣きそうに嬉しかった。インスタントのうどん如きでこれほどまでに喜んでくれるのだ。
「今回、二人に会えたのは、僕がチェコで一年間頑張ってきたことの、神さまからのご褒美だと思うんです」とP君は言った。
異国での偶然の出会いが、P君の感情を大げさにしていることはわかっていたが、それでも僕らは嬉しくてたまらなかった。
P君は食べ終わると、片付けます、と言ってシャワールームにカップを洗いに行った。そこまでする必要はなかったが、たぶん止めてもP君の気はおさまらないので、すきにしてもらうことにした。
十二時になるとP君は、そろそろ戻ります、と言って自分の部屋に戻っていった。僕らがP君よりも三時間ほど早い飛行機に乗ることを知っているからだ。
「なんだろうね、彼は?」と妻が僕に言った。
「なんだろうな、彼?」と僕も同じように繰り返すことしかできなかった。
P君が去った部屋は、何かが欠けてしまったような雰囲気になった。だがP君とはモスクワでまた明日会うことができるのだ。これでお別れではない、と自分に言い聞かせることにした。
「明日、飛行は飛ぶかな?」と僕は妻に訊いた。
「絶対に飛ぶわよ」と妻は自信満々だ。
「だって、あなた本当に運がいいもの、じゃなきゃあんないい子と出会えないわ。だから絶対に日本に帰れるわよ」
妻にそう言われて、自信を持たない僕ではなかった。
「何しろ俺はオリンピックのチケットを当てた男だからな」
自分でそう言いながら、運がいいのは僕ではなく妻ではないか、と思っていた。妻の運を僕は少しだけ分けてもらっているようにしか思えなかったからだ。
「さぁ、シャワーを浴びて寝ましょう。明日も早いわよ」と妻が言った。