『アップルパイ』(短編小説)
(あらすじ)
夫は無類のアップルパイ好き。それはどうやら、昔の彼女に訳があるようで...アップルパイと初恋をめぐる小さな物語。
**『アップルパイ』 上田焚火 **
「あなたって、どうしてそんなにアップルパイが好きなの?」
妻にそう言われて、確かにそうだ、と私は思った。
その日は誕生日で、目の前にはショートケーキじゃなくて、アップルパイがあった。
銀色のアルミの皿に入っているホールのアップルパイだ。もちろんイチゴケーキやモンブラン、ショコラケーキが嫌いなわけじゃない。だが、一番好きなのはアップルパイだった。
「お母さんが、子供の頃に焼いてくれたの?」
妻の質問に、私は首を横に振った。母親にはアップルパイどころか、ケーキさえ焼いてもらったことはない。
「子供の頃は、アップルパイなんか食べたこともなかったな」
「じゃあ、いつ頃から好きになったの?」
「さぁ、いつ頃からだろう…」
首をかしげるばかりだ。でも、ある時からアップルパイが好きになったのは確かだ。
それ以来、カフェに行けば、ケーキじゃなくてアップルパイを頼み、マクドナルドへ行ってもフライドポテトじゃなくて、アップルパイを注文していた。コンビニへ行ってもアップルパイが目に入るとつい買ってしまう。
おかしなことに、妻に言われるまで、そのことにまったく気がついていなかったのだ。
「一番最初にアップルパイを食べたのはいつなの?」と妻がさらに訊ねた。
アップルパイについての一番古い記憶は、高校生のときだ。確かにその時、アップルパイを初めて食べたはず……。
というか、アップルパイを見るのも初めてだった気がする。ホールで買ったから、たぶん千円以上はしたはずだ。
今はなくなってしまった近所のケーキ屋さんで、アップルパイを買ったのだ。お小遣いで買ったんじゃない。何かアルバイトをしたお金で買ったはずだ。でなければ自分でホールごとアップルパイを買うはずはない。すこしずつだが記憶が蘇ってくるの感じた。
「それって、誰かの誕生日に買ったの?」
妻に訊ねられて、またもや私は首を横にふった。
「たぶん違うと思う。自分のでも他人の誕生日でもないと思う」
「なぜそう思うの?」
「だって、一人で全部食べた記憶があるからさ」
「あなた、初めて買ったアップルパイを一人で全部食べたの?」
「そう。誰とも分けないで、自分の部屋でこっそり食べたんだ」
そのときのことを思い出していた。包丁なんかをキッチンから持ってきたら、母親にわかってしまうと思い、そのままかぶりついたのだ。パイ生地はごわごわしていたが、中のリンゴはサクサクして甘かったのを覚えている。
「どうして一人で食べたの?」
「さぁ、わかんないけど、一人で全部食べてみたいと思ったんだ」
「それで、どうだったの、アップルパイは?」
「始めのうちはおいしかったんだけど、さすがに最後の方は、嫌々食べていた気がする」
いくら食べ盛りの高校生といえど、さすがにアップルパイをホールで食べるのは大変なことだった。
「それで好きになったの、アップルパイ?」
「たぶん…」
言葉を濁した。どうしてアップルパイを食べはじめたのかを思い出したからだ。それは妻に話すことがはばかられる。妻はそのことがわかっているのか、急にニヤニヤして訊ねてきた。
「わかった。その後、誰かにアップルパイをもらったんでしょ」
「いや、もらってない」
「初恋の人かなんかに貰ったんでしょ、手作りのアップルパイを」
「いや、絶対にもらってない」
これには嘘はなかった。神様に誓って、アップルパイを誰からも貰っていない。
「それじゃ、昔の彼女とデートしたときに食べたんじゃないのアップルパイ」
「いや、それもないな」
「本当に?」
「本当だよ。絶対に誰とも食べてない」
「わかった。じゃあ、好きな女の子の大好物だったんでしょ、アップルパイ」
「そんな彼女もいなかったな」
どれも嘘はなかった。つきあった中でアップルパイが好きな女の子はいなかったはずだ。
では、どうして今もアップルパイを食べ続けているのか、そのことは妻に話してもわかってもらえないような気がする。これは本当に個人的なことだったからだ。
「ねぇ、話してよ」
「嫌だよ」
「話さないと、もう二度とアップルパイを買ってこないからね」
話しても話さなくても、もうこれで二度と妻の前ではアップルパイを食べることができなくなってしまったことを悟った。
そう、アップルパイの古い記憶は、初めてつきあった彼女とのものだった。
人生の中で、大概の初めては、その彼女とともにあった。一目惚れしたのも彼女が初めてだったのだ。
入学式の日、クラスの女の子が一人一人教室に入ってくるのをじっと眺めていた。品定めと言えば聞こえが悪いが、クラスの男子たちは息を飲んで女の子たちが入ってくるのを眺めていた。
これからの一年間、楽しく学校生活を送れるかどうかは彼女たちにかかっていたからだ。入ってくる女の子たちも男子からジロジロ見られているのがわかっているようで、緊張した面もちで恥ずかしそうに俯いていた。
だが期待とは裏腹に、心ときめく感じはなかった。通っていたのは田舎の進学校で、どの子も真面目そうだったからだ。
まぁこんな感じなんだな、と自分の容姿は棚にあげっぱなしで、ほんの少し落胆していると、彼女が入ってきたのだ。
七番目。そう、ちょうど七番目に彼女は教室に入ってきた。彼女は小柄で、透きとおるみたいに肌が白かった。肩までかかるボブの髪は、軽やかにまっすぐにのびて、陽の光を反射してきらきらと輝いてゆれていた。
男子に見られているのに気がつくと、彼女はそっと顔を上げてこちらを見つめ返した。彼女の眼は切れ長で、瞳は薄い茶色だった。
吸い込まれそうだった。その眼に見つめられ、私は体がほてるのを感じた。これが一目ぼれなんだと初めて気がついた。
それはクラスの大半の男子も同じだった。みんなが彼女に夢中だったのだ。クラスの男子の中には、俺は絶対に彼女をものにする、と宣言する者もいたほどだ。だが、そんなことは私には関係なかった。
もう恋に落ちてしまったのだ。自分を止めることは、自分にさえできなかった。それにそのときの私には、初心者のツキのようなものがあった。初めて競馬に行った人が、万馬券を当ててしまったというようなものだ。つまり恋の初心者としての運があった。
彼女と二人っきりで話しがしたい。当時クラスの男子の誰もがそう思っていた。
だが、女子は女子でかたまっていることもあって、なかなかそういうチャンスはない。
たまたま隣の席になった者でも、長時間となると難しい。何度も言うが、私には初心者としてのツキがあった。
入学して二週間後に、全校一斉に行われる体力検査があった。それは一日中行われる大きな行事で、普段の授業が行われない初めての催しだった。
そのとき偶然、彼女とふたりで走り幅跳びの測定係りに任命されたのだ。彼女とはたまたま出席番号が同じ、そう、同じラッキーセブンだったからだ。
自分たちの測定以外は、ずっと砂場でメジャーを持って仕事をしなければならない。幸運なことに砂場は運動場の隅っこにある。そこでは誰の目にもふれないので、思う存分彼女と話をすることができる。
今まで、一言か二言話すのがやっとだったと言うのに、その日は一日中、彼女と一緒にすごすことができた。
二年生や三年生の先輩たちが、どんどん砂場で幅跳びをする。メジャーを持った私たちはその測定をするのだが、もう誰が何メートル飛ぼうと関係なかった。彼らの踏切の足の位置よりも、彼女の笑顔の方が気になって仕方がないのだ。
それは天国のような一日だった。
すっかり自分という者を彼女に印象づけてからは、さらに私は素早かった。何事も、先んずれば人を制すのである。その週末には、彼女の家に電話をして、デートに誘ったのだ。なんと彼女はOKしてくれ、翌週には晴れてデートとなった。
もちろんデートをOKしてくれたからといって、つきあうことまでOKしてくれたことにはならない。だが、彼女と一緒に映画を観ることができる、そのことだけで私は舞い上がってしまった。
映画は『ストレンジャー・ザン・パラダイス』だった。彼女が幅跳びのときに、観たいと言っていた映画だ。
監督はジム・ジャームッシュ。彼女の話では、カンヌ映画祭の新人監督賞をとっており、どうやらもの凄い監督らしい。
だが映画の方は、前衛的というか、アート的というか、とにかくぜんぜん内容がわからなかった。良いも悪いも判断できない映画だったのだ。
しかし、それも仕方がない。その頃、私が好きだった映画は、『ベスト・キッド』(いじめられっこが空手で優勝する話)で、彼女の好きな映画とはまったく違っていたのだ。
ちなみに彼女の好きな俳優は、マット・ディロンで、『アウトサイダー』という映画に出ていた。その頃、私はマット・ディロンなんて俳優も知らず、ただ頷くばかりだった。とにかく、もう何から何まで初めてのことだったのだ。
正直、辛い二時間だった。内容もよくわからないので、眠くなってしまったのだが、なんとか乗り越えた記憶だけがある。
だが、重要なのは映画ではない。映画が終わった後に彼女が言った言葉が重要だった。
「ねぇ、女の子をこんな風によく映画に誘うの?」と彼女は私に訊いてきたのだ。
今思うと、これは彼女からの初めての質問だった。
「いいや、初めて誘ったんだ。今までこんなことしたことないよ」
そう言うと、彼女はほっとして微笑んだ。その様子を見ていて、彼女も初めて男の子に映画へ誘われたんだ、と理解した。だから、君はどうなの、とは訊ねなかった。すると彼女が勇気を振り絞るように意気込んで、さらに言った。
「また、誘ってくれないかな」
彼女の言葉に、私は飛び上がるほど喜んだ。また誘ってほしいということは、これで二人は彼女彼氏としてつきあうということだったからだ。
その後、週に何回かは一緒に帰り、一週間に一回は電話ではなし、月に一回はデートをするようになった。
だが、半年もすると、私の初心者としてのツキは次第に薄れていった。
とにかく彼女は人気があった。二人がつきあっている間も何度も他の男子たちに告白されていたのだ。彼女はそのたびに、彼氏がいるのでつき合えない、と断っていたそうだ。
そうだ、というのは、彼女から直接聞いたわけではないからだ。いつも誰かから、そのような情報が入ってくる。
一度、全然知らない別のクラスの男子がやってきて、どんな彼氏かと私を見に来たことがあった。
その男はこちらを見るなり、「なんだ、お前がつきあってる男なのか」と、言って蔑むような眼をして帰って行った。
つまり私は彼女に釣り合う男ではないと言うことだろう。それは自分でも薄々感じていたことだった。
風呂上がりに自分の姿を鏡に写して、自信をなくしていたのだ。
次第に彼女が他の男にとられるのではないかという心配が芽生えてきた。だから、いちいち彼女の言動が気になって仕方がない。他の男子と楽しそうに話をしていると気がきではないのだ。
私は嫉妬の炎の中でジリジリと焦げていくのを感じた。
初心者の幸運は長くは続かない。ギャンブラーが賭ければ賭けるほど負けが増え続けるように、私も負け続けたのだ。
その頃の私はまだ十六歳で、何がいけなかったのかわかっていなかった。今なら注意することが山ほどある。
とにかくすべてにおいて、私は裏目裏目を出し続けていたのだ。
そして一年後。彼女はこう言った。
「あなたのことを好きじゃなかった」と。
「ちょっと待って、あなたの最初の彼女が美しかったことはわかったし、その彼女がちっともあなたに合わなかったこともわかったけど、アップルパイはどこにも出てこないじゃない」と妻が言った。
確かにそうだ。どこにもアップルパイは出てこない。
「ああ、そうだ。アップルパイだったね」
私は思い出の中から、アップルパイだけを取りだすことにした。
「その彼女がさ、別れる一ヶ月ほど前に俺に訊いたんだ」
「何を?」
今思えば、それが彼女からの最後の質問だった。
「彼女さ、俺に訊いたんだ。『ねぇ、アップルパイって好き?』って」
「それでどう答えたの?」
「それまでアップルパイなんか食べたことも見たこともなかったんだけど、『好きか?』って訊かれたから、プレゼントしてくれると思って『好きだよ』って言ったんだ」
「それでアップルパイは貰ったの?」
「いや、貰ってないよ」
「じゃあ、なぜ彼女は訊いたの?」
「それが今でも謎なんだ。実際、彼女がアップルパイを好きだったという事実もないし」
「それであなたはアップルパイを好きになったの?」
「そうなんだ」
好きだよって言った後、アップルパイを食べたこともないのに、好きになってしまった。そんなことこれまで一度もなかった。何も知らないのに好きになってしまった。まるで魔法にかかったように好きになってしまったのだ。
それは一人でホールのアップルパイを食べた後も変わらなかった。
「ふ~ん」
妻が、こちらを見つめた。きっと私が今でも彼女のことを思いつづけていると感じたに違いない。
だが、今でも彼女のことが好きなのか、と問われれば、違う、と断言できる自信があった。
あの頃はよくわからなかったが、彼女とは何から何まで違いすぎる。
それにもう月日が経って、彼女の姿や顔も声もなにもかも忘れかけている。きっと今、彼女とすれ違ったら、気がつかないかもしれない。
だけど、彼女からプレゼントされたわけでも、一緒に食べたわけでもないのに、アップルパイだけは今でも好きだった。
「これって、どういうことなんだろう?」
自分でもわからなかったし、妻にはなおさらだ。
「さぁ~」と言ったきり妻は何も言わなかった。
それ以後、妻とはアップルパイについて話をすることは二度となかった。
(イラスト・三嶋さつき)