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回想録 六 教師としての生活 その2

回想録 六 教師としての生活 その1 からの続き

3、上田北小学校

1学年から3年まで受け持った。同じ年と次の年に30代の元気の良い先生が集まっていた。他郡から来ている人が多かった。
校長は佐久の人で、西田哲学を学習会で読み合わせていた。
教頭は田中先生で上田小県うえだちいさがたのエリートだった。道徳の資料作りで授業を見せるようによく言われて、やった。
体育の係になり、伊藤先生とやった。
「俺が俺が」の先生で自分のやりたいことを一人でやっていた。

その頃、市内の小学校で水泳大会(6年生?)で六校中いつもビリでいたのを、伊藤さんが嘆いた。それで、北牧のスケートクラブの練習の真似をして、放課後選んで練習することにした。
すると若い先生で高校時代に水泳部にいたという人が二人いて、手伝ってくれた。北牧も大岡もプールは無くて、自分も余り泳いだ経験がなかったので助かった。
次の大会ではリレーで2位になり、喜んだ。
1学年の頃、テレビで25mを一週間で泳げるようになるという番組があり、メモをしながら学んだ。
その方法で水泳の練習をしたら、2年になって校内の水泳大会をしたら、25m泳げる子が3年生より多かった。

音楽は専科の先生のやり方で固いものばかりだったが、富井先生が学生の時ギタークラブをやっていたので、楽器では新しい曲で皆を喜ばせた。
音楽会は先生の伴奏が聞かせ所だった。

ちょうちん学校と言われ夜まで研究していると聞いていたが、週一回の学年会や行事の前後は酒を飲んでいた。続きで焼き鳥屋へ行きそこでも飲んだ。家にも寄って丸子まで、明子(妻)の車で送ったりした。
3年の終わりになり同期の者が転勤になった。
松本の源池に決まり、校長が面接に来た。
「野球はやるかね」が第一声であった。
北牧小の時も北小の時もピッチャーで、職員が近くの学校と試合をするのが慣わしだった。当時は男の先生が多くてチームが作れた。

4、源池小学校

明子が仕事の都合で松本へ行けないと言うことで、単身で転勤した。学校のすぐ前だった所に下宿した。
源池小学校も北小学校と同じく、全県から中堅の人が集まっていた、研究校だ。
学年会を中心にして、学年主任が競争しているみたいな所があった。学校の伝統で花畑と動物を飼うようになっていた。

研究会の講師は、西田先生の孫で、信濃教育会の研究所主任の大先生だった。また、国語の研究授業の講師は、長野県の国語の大家と言われた先生で、他校のように県の指導主事は呼ばなかった。
校長が代々管理主事が源池小の校長だった。主事たちも県も何も言わなかった。

3年になり組替えがあり、城取先生と米山先生が新しく学年になった。米山先生は五十歳近い先生で自分のやることが一番だと思って、他人の言うことは聞かない所があり、子どもたちに対してもしつこく指導して受け持っていたクラスの1/3の子が学校へ行きたがらなくなっていて、父母から苦情が出ても校長や学年主任の言うこともきかない。それで前のクラスから変わって来た。学年主任が黒岩主任に頭を下げて頼んでいた。

何とかしなくてはと考え、まず皆で出身地やその近くへ泊まりで行くことになった。
初めに米山先生の出身地の木曽へ行った。
木曽の馬込は藤村の故郷だ。その村に児童文学で有名な女性がいて、米山先生と旧知の仲だったので、お宅へ連れて行ってくれた。
お茶の入れ方を教わった。お湯を茶碗ごとに入れ、冷やしてから急須に注ぐことを教わった。近くに茶畑がある所だった。

後にPTAの読書会で話をしてもらった。

次の年は内山へ来た。そんなこんなで、同学年の先生にも耳を貸すようになった。会議が終わり遅いと中華そばを頼んで配達してもらっていた。
その店は近くで良く飲みに行って、主人や手伝いの姉妹やおばあさんとも親しくなった。
松本工業高校の先生たちも常連だった。

野球のPTAの人など職員でチームを作り試合をした。松工の野球部ともしたが、全然歯が立たなかった。

二年目の夏休みに車の免許をとった。
学校から薄川を隔てた所にあった教習所で習った。教え子の父親が教師だったので親切に教えてくれた。
学科も実技も一回でパスした。
当時は落ちるのが当たり前だった。売れ残りの車で空冷の黄色いナンバーで、坂道を長く登ると、動かなくなった。

四年目の夏に、父が佐久病院の木から落ちて死んだ。
その日のうちに内山へ向かったが、途中故障したりした。
その年の冬、由里(娘)も来て、源池の子どもたちとスキーに行った。
次の年度、父もいなくなったので佐久へ帰ることにして小諸の坂の上小へ転任になった。

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