回想録 三(その1)、湯原から内山へ「終戦まで」6才~
小学校で、学校名は「内山村立内山国民学校」1年生入学式は母と(父は前年(昭和16年2月)出征(赤紙で)。長子(妹)が10月に生まれた。開戦昭和16年12月8日
知っている子はだれもいない。常会だけで、男1人女4人もいたが(保育園の無い頃)
〇1年生
1.2年生担任は小松先生。いつも着物で袴。覚えているのは、清掃が終わると、職員室にいる先生に「先生、そうじが終わりました。御覧下さい」と言う。頭を下げ言うのだが「御覧下さい」と言うのは、使った事がなかったので、何回も言い直しをさせられた。
次に覚えているのは「イカダコの作り方」。
冬の遊び用だった。唐傘の骨を削って簡単に作れた。紙は障子紙だ。
他に思い出すことは無い。
学校での勉強は楽だった。
修身があり、神話を解りやすくした物語だった。
大国主命や因幡の白兎やヤマトタケル、神武天皇の話が中心だった。紙が少ししかなくノートはほとんど使った覚えがない。国語は1年はカタカナ、2年生でひながな、練習は石板(教科書の2ページぐらいのお大きさ)でろう石を使って、書いたり消したりした。他は教科書だけ。絵を描くときだけ白い紙をもって12色のクレヨンで戦闘機や戦車ばかり描いていた。終戦まで続いた。
〇2年生・3年生
朝の登校は各地30戸くらいの1年から6年男女別に2列に整列し、先頭は六年や五年生で「イチニ、イッチッニ」と言いながら学校へ行った。学校での休み時間も同じ組がまとまって、大きい人が小さい人をおんぶしてぶつかり合って、転んだ方が負けで「組」対「組」で遊んだ。そこで近所の友が出来て、帰ってからも近くの人と遊ぶようになった。
〇正月の行事
子ども達の行事も、地区ごとにやった。1月1日は学校で集まって新年会があって終わると道祖神祭りだった。子ども好きの家を借りて庭で甘茶を作り、地区の家を訪ねてヤカンから注ぐ。するとお年玉だと言い何円か、何銭かをくれる。それを1日2日3日とやり、その間に獅子舞の練習をした。5、6年生が頭に入り、4年生が太鼓を叩く。中に入るのが1年生で中宿の一年生は自分ひとりだったので、中に入って舞った。借りた家の中に入れるのは、3人と上級生だけでコタツにもあたらせてもらった。3日の夕方から各戸をまわって舞った。親方は5、6年生で進めた。
4日は各家のお供えの紙を集めて、(御幣(お宮で神主さんがお払いに使うものと同じ))昼間のうちに各戸をまわった。そのたびにお金をもらった。後ではお米をもらった。(お皿や茶わんに一杯)
6日になると使った道具を園城寺の物置に。