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頼朝が隠れた「ししどの窟」の石仏群 苔に埋もれる弘法大師の石仏たち

そこに至る道は、小高い山の小さなトンネルを抜けると、あった。
1180年に源頼朝が「石橋山の戦」で平氏に敗れ、わずかな供を連れて湯河原の山中にその身を隠した、との伝説が残る洞窟が「ししどの窟(いわや)」である。


このトンネルの向こう側に「ししどの窟」に続く曲がりくねった細い道がある。

今年の大河『鎌倉殿の十三人』にも登場したこの洞窟は観光地として人気を博している。今回はその洞窟よりも、道端に置かれた弘法大師像に目を向けてみた。もしかしたら、洞窟へ急ぐあまり、ある事も気がつかれないくらいに、さりげなく置かれているものである。

湯河原は伊豆箱根の入り口で、山に入るとその一帯は関東山伏の発祥の地である。なので日本に密教を持ち帰った弘法大師を崇敬する弘法大師信仰の遺跡が多いと言う。これから紹介する石仏群は、弘法大師像であり、「かつて山麓に湮滅されていたもので、これを世に出し(中略)この聖地に遷座したものである」と史跡由来に記されている。

急な坂道を歩きながら、気になった弘法大師像を撮影してきた。長い洞窟に至る道に点々と置かれた小さな石仏は、どれも深く枯葉に埋もれ、緑濃い苔に覆われていた。随分と長い間、風雪に耐え、埃を被ってきた歴史を感じさせる。


ほぼ同じ大きさの四角い石箱の中に入り、洞窟に至る道に均等に配置されている。その表情は様々で大方、柔和な顔立ちである。



手には大日如来の五智を表し、金剛界曼荼羅を象徴すると言われている、「五独杵」を必ず持っている。さらながら、弘法大師蔵のミニュチュア石仏、家庭サイズのフィギア、と言ったところだろうか。


どのような用途でたくさんの同じサイズの弘法大師像が作られ、また大量に遺棄されていたのか知る由もないが、「湮滅されていた」とあるところから、もしかしたら廃仏毀釈に原因があるのかもしれない。


その石仏たちは洞窟を訪れる人を守っているのようでもあり、いにしえに祈られた人々を思いながら再び、その人々が訪れるのを、ずっと待っているようにも見える。 


石仏達は山に朝日が当たり、夕方に木々が赤く染まるのを眺め、美しい紅葉を見る。そして時に雪を被り、雨風を受けながら、これからもこの地に歳月を重ね、訪れる人々の風俗が変わるのを今日も黙って見守っている。

              



頼朝と共に洞窟に逃れた関東武者の土肥実平と、頼朝たちに農民に変装して食料を届けた、と言う「土肥の女房」の像。湯河原駅前にて


             (了)

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