『ガラス窓が汚れてる』に日本人的な諦念を感じた話

日向坂の楽曲MVは比較的分かりやすいものが多い。ストレートなメッセージ性、キャッチーな振付、メンバーのキラキラした姿や表情が強みでありカラーであるように思う。
しかし、『ガラス窓が汚れてる』はそうした既定路線から距離を取り、婉曲的な表現・メタファーを多分に含ませてきているように思えた。
そして、そのモヤモヤとした感情を後押しし、考察意欲を掻き立ててくれたのは本MV公開後に更新された松田好花のブログ。そこには以下のように綴られていた。

「同じ現実世界を生きているのに、人によって見えている世界、現実は異なる」というストーリーになっています。メンバーやグループごとに設定がそれぞれあるので、それも想像しながらぜひMVを観てくださると嬉しいです!

https://www.hinatazaka46.com/s/official/diary/detail/50969?ima=0000&cd=member

なるほど、前提とすべき主題は鉤括弧内「同じ現実世界を生きているのに、人によって見えている世界、現実は異なる」というところなのだろう。

・メタファーとしての「汚れ」

ガラス窓の「汚れ」
それは人によって気になったりならなかったりする何かである。「僕はそれが気になるから 授業とか集中できない」のだが、「それならお前が拭けばいい」と言われると、どうやらそれで解決する話でもないらしい。

この「汚れ」が何らかのメタファーとして機能しているのは想像に容易いのだが、果たして何を暗示しているのか。MVと擦り合わせて読み解いてみる。

①バスで喧嘩する男性(1-A
バスという他者と共有された現実の空間、喧嘩を止めようとする人がいたと思えば、何も気にせず傍観する人、目を向けることすらしない人、可笑しげにスマホのカメラを向ける人だっている。
まさしく前提となる論点「人によって見えている世界は異なる」ということの表れと言えるが、これだけだといまいち主旨が見えてこないかもしれない。

②制服姿の金村と丹生(1-B
⇒自転車に二人乗りして颯爽と坂をかけ下る。
ここで、とあることに気付く。このシーン、一見すると甘酸っぱい青春の1ページだけど、自転車の二人乗りってダメだよな?まして丹生さん後部で立ってる。さすがにそれは危険行為、悪いことじゃないですか。
なるほど、汚れとは悪事のメタファーなのか、と。そんな気付きと同時に、この私の解釈にこそ「人によって見えている世界は異なる」という主題が介在していることに気付かされる。
私は「二人乗り」という悪事に敏感に反応してしまったが、見る人によっては、このワンシーンに対し「悪いことをしている」などといった印象は抱かないのかもしれない。何を以て「悪」と呼ぶのか?という自問が始まる。

③車に乗る齋藤京子とぐったりと倒れている佐々木久美(1-サビ
⇒交通事故を彷彿とさせる状況であることは自明だが、そんな状況でヘラヘラと笑いながら誰かと電話している齋藤。
二人乗り程度であれば「悪」だと思わなかった人でも、車で人を轢くという行為には抵抗を覚えるだろう。だが、それでもヘラヘラと笑う齋藤京子。違和感が拭えない。
果たして「悪」の尺度は、「人によって見えている世界、現実は異なる」といった論法で曖昧なままにしておいてよいものなのか?
(これはあまりにも大きいテーマなため本稿における議論の深耕は控えるが…)

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何を以て「汚れてる」というのか、何を以て「悪」と呼ぶのか、それはきっと人それぞれだろう。
主観的で曖昧なものだからこそ、「僕」は「どこまで糾弾すればいいのか?」と嘆く。

境界を曖昧のままにしておけない「僕」。
善悪の境界、夢と願望の境界、
それは他人からすれば大した問題ではないのかもしれない。平気な顔で信号無視のような規律違反を冒す者もいれば、それに敏感に反応してしまう「僕」のような者もいる。

また、繰り返し登場する「夢」や「願望、希望」といった言葉。
「叶えたい夢がある」と人はよく言うが、何をもってして「夢」たりえるのか?「~したい」「~になりたい」といった記法で表現される「願望・希望」程度の言明は日常のなかにおいても散見されるだろう。自分が夢だと謳っていることは、他人からすればきっと願望程度のことなのかもしれない。他人にとってはどうでもいいようなこと、大したことのないことを夢なんて大仰に謳ってしまうのは少し気恥ずかしくもなる。
曖昧な概念に依らざるをえない生に戸惑いを抱きつつも、「僕」は目を皿にして、この先も答えを探しながら生きていく。

さて、ここでブログのタイトル回収。
この『ガラス窓が汚れてる』、個人的には、とある楽曲との類似性を感じずにはいられなかった。それは、ひらがな時代に発表された『未熟な怒り』。

生きる理由も与えられず、ただ産み落とされた。誰かに言い含められ、理由も分からないままただ生きている。いいことばかりではない人生をただ生かされているという、抗うことのできない理不尽に対する「怒り」。反出生論的な主張であると同時に、そこには生に対する、ある種の諦念があるように思える。それは単なる諦めではなく、怒りという形で表出される、二重性を有するものである。なるほど、まさしく和辻哲郎の言う「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」というやつではないか、とずっと思っていた。

で、この『ガラス窓が汚れてる』にも同型の議論が適用できるように思えた。
すなわち、人間の尺度がそれぞれ異なっているという構造、それ故の生き辛さに対する怒り。「僕」は周囲に比べて敏感な尺度を有して生まれてきてしまったが故に、窮屈に感じてしまう。
もし、善悪の尺度にしろ、何を以て「夢」というのかの尺度にしろ、他者間で同じ価値基準が共有されていれば、生き辛さを感じることはないのではないか?
しかし、そんな曖昧さを理由に生きることを放棄することもできないだろう。だからこそ、怒りを飲み込み、価値基準の曖昧さを受容して、向き合って生きていく。


同じテイストを感じる二曲だけど、最終的な着地が『未熟な怒り』では「このまま死んでくだけだろう」であるのに対して、『ガラス窓が汚れてる』では「そんな日常生きていく」なのは面白い対比だと思う。
もしかしたら「僕」も大人になったのかもしれない。


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