梅雨とタバコとUSB

徹夜明けの気だるさだけが身体に残っている。七月上旬の暗い朝、梅雨は未だ明けず、もはや聴き飽きた雨音が窓の外から聴こえている。こんな日に外に出なければいけない用事を作ってしまった過去の自分を恨みつつ、玄関の扉を開けた。
「じゃあ、今までありがとう」
三年間付き合った恋人との関係が終わってから数週間が経とうとしていた。まだチャットアプリ上での会話の削除は出来ておらず、積み重ねてきた長い時間をあっけなく終わらせた通話時間14分42秒のログが、今も寂しく残っている。もう新しい恋人は出来たのだろうか。そんな考えに気を取られて、水たまりの存在に気づけなかった。スニーカーの底から侵入してくる冷たい不快感。傘を持つ手は湿気でベタついている。
少し早めに着いた大学の喫煙所で、タバコに火を付ける。ライターをポケットにしまおうとした拍子に、左手に持っていた傘がずれた。降ってきた雨粒が、今しがた付けたばかりのタバコの火を消した。苦味の増した少量の煙を肺に入れると、寝不足のせいか頭がクラクラした。鎮火したタバコを灰皿に投げ込んで、構内へ向かった。
「あのねえ、提出遅れてるのは君だけなの。他の生徒より考える時間はあるはずなんだから、もっと考えてよ。これ、書き直しね。待ってやってるこっちの身にもなれよ」
教授に言われた言葉が頭の中で渦巻く。前半は無理をして、後半はヤケになって書いた5032文字のゴミみたいなレポートだ。何が「近代の日本とイギリスの経済史の比較」だ。そんなことで5000字も書ける奴の頭はどうかしていると思う。たった今教授から突き返された何枚組かの薄っぺらい紙束を、腹いせにゴミ箱へ投げ込む。帰ったらシャワーを浴びて少し眠って、また朝までレポートの書き直しだ。
とっとと自分の部屋に帰りたい一心で、バッグの中からアパートの鍵を取り出そうとすると、肩からするりと抜けたバッグが、さっき足を突っ込んだ水溜まりに落ちた。同じ水溜まりに二度も足をすくわれるなんて。でもバッグの中には真面目に聞いてない授業のテキストくらいしか入ってないし、このバッグもそんなに大事な物でもない。
部屋に戻ってすぐにシャワーを浴びた。肩が濡れた服と底が濡れたバッグをハンガーに吊るし、部屋干しする。中身を取り出して見ると、テキストの間にはさまってカプセルの錠剤を二回りほど大きくしたような物体が入っているのを見つけた。ああ、そうだ。レポートのデータが入ったUSBも一応バッグに入れておいたのをすっかり忘れていた。加筆と修正をする予定だったレポートのデータが消えてしまえば、またイチから書き直しだ。水浸しになったUSBを慌ててタオルで拭き、恐る恐るノートパソコンに差し込んでみる。こんな時に、USBの裏と表を間違えて上手く差し込めない。一回で差し込める確率は50%のはずなのに、どうしてこうも毎回間違えるんだ。じゃあ、細いタバコの先端に雨粒が当たる確率は? 同じ水たまりに足とバッグを突っ込む確率は? 自分みたいな人間に恋人ができて、三年間も関係が続く確率は?
そんな考えを振り払うように、パソコンの画面にUSB内のフォルダが映し出された。レポートのテキストファイルと一枚の画像ファイル。自分と恋人の映った写真だった。そういえば大事な画像はここに保存したんだっけ。
数秒の間を置いて、パソコンから端末の外れる音がして、フォルダが自動で閉じた。それっきりUSBはなんの反応も示さなくなった。
今泣いたのは、咥えたままのタバコの煙が目に沁みただけだ。あるいはレポートのデータが壊れたからだ。降りしきる雨音を聴きながら、日本とイギリスの経済史についてもう少しちゃんと考えてみようと、そう思えた。

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