いかにして、真実に向き合うの、
真実に向き合うのは、とても苦しい作業だ。
人によっては、親に愛されてこなかったこと、
もしくは人に嫌われるような特徴を、、、、
受け入れなければならないのかもしれない。
そんなことしなくても、生きていけると言う人もいるだろうけど、
ほんとうにそうだろうか?
自分の中の、苦しいけれども、現実に存在している問題を、
見ないようにして、それは生きていると言えるのだろうか。
だって、その事実は見ないようにしても、変わらないものだ。
どれだけ悲惨で、苦しく、そして重い現実でも、それはそこにある。
見ないようにして、上を見上げてみたり、逆の方向に進んでみても、
結局それらは、その現実を回避するためのもので、
だから、影響を受けていると言えるだろう。それがなければ、その行動をとらなかっただろうからね。
そう言う意味では、自由を奪われていると言える。
じゃあ、どうするかって、現実に向き合うしか無いんだよね。
でも、それをいかにしてするかと言う問題がある。
寄り添ってくれる人を頼りに、一時的にその人にもたれるような形で、
人生に向き合い、再出発できる人もいるかもしれない。
そんな人は幸運だ。
でも、僕にそう言う人はいないし、親からさえもいじめられてきたような人生だから、人を信用するなんて出来ない。怖いんだ。
だから、徹底的に、自分に頼る必要がある。それは、気分で対応の変わる、親たちのような不安定な存在ではなくて、ブレない、自分だ。
最近気づいたんだけど、そのブレない自分が自分の中にも存在しているんだ。それは、誰にもそうだと思う。
ただ、それを見つけるには、心を落ち着ける必要があると思う。
忙しない日常を生きて、どうでもいい瑣末なことに一生懸命になって、
でも上手くいかなかった。だから僕は、人生を降りたんだ。
降りて、ぶらぶらして、その間も本当に苦しくて、いろんなものに縋ってきた。何かができたら、評価されたらと思い、頑張ってみたりして、ちょっとした賞をもらったりしてみたりしたが、全く何の影響もなかった。むしろ、インポスター症候群的に、あれは不正に評価されたものだとさえ思ってしまうほどに、ひどい精神状態だった。
頑張って、何かをすれば、自信がつくと思って、それで頑張ってみても、結局意味がなくて。だから、もっとしんどくなった。
読める本は、なんでも読んだ。モヤモヤしてるし、早く成果を出したい一心だったから、流し読みみたいなもんで、ほとんど意味がなかった読書かもしれない。でも、そんな程度のものでも、僕の精神状態は、少しずつ良くなっていったように思う。
そんなだらだらした生活の中で、悲劇が3件あって、本当に絶望した。
人生で初めて声をあげて泣いたこともあったし、朝起きるたびに動悸がして、本当に苦しい日々が数週間続いたこともあった。
で、その苦しみの日々が、僕を変えてくれたように思う。
だって、それ以上の苦しみなんて、無いと思えるほどの物だったしね。
結局、そう言う衝撃的な物でしか、人生は変わらないのかもしれない。
でも、そう言う衝撃的な出来事の何が、自分を変えたかって、
よく考えてみると、外的な状況ってのは変えてないんじゃ無いかと思う。変わったのは、自分の捉え方かもしれない。悲しい、すごく悲しい精神状態なのだけれども、それを、一歩引いた何かの視点で、自分を見た瞬間があった。それは自己防衛的なもので、あまりの悲しみに、解離的なものになっただけなのかもしれないけれど、それでも、自分を離れている時間、それはその悲しい出来事から少し離れられて瞬間で、悲しい自分を、ふっと冷静に見れている、不思議な瞬間、時間だった。
そして、解離、を意図的に起こせるのなら、マインドフルネスなんじゃ無いかと思う。エゴ的な自己は、自分だけをよくすることを考えている。でも、そのエゴから離れて、今だけをみれば、どれだけ変わるのだろうと思う。
何であれ、何かをするためには、判断基準が必要で、その判断基準は、普通はエゴが仕切っている物だ。だから、人類は、成長していない。自分だけ、自分だけの世界では、自分が勝ち、そして他者が負けることは喜びだ。
逆に、自分が悲しみ、他者が喜ぶなら、悲しみ苦しみ嫉妬につながる。
結局それは、エゴと生きているからだ。
エゴと生きると、自分の悲しみに向き合えない。
だって、その悲しみが、そのエゴの人生を左右するからだ。