なりたい自分と、本当の自分
変わりたいと言う時、前者のなりたい自分になりたいという人がいると思う。
例えば、お金持ちだったり、モテるとか、社長とか、まあ色々あると思うんだ。きっと、ほとんどの人は、そんなふうに、何か目標を決めて、
そしてそれに向かって進むことで人生を歩んだつもりになっている。
でも、歩んだつもりだと思うんだ。
夢に向かって、目標に向かって進んでいる現在は、
ただの途中で、そこに幸福感はなくて、ならなければならないという切迫感だけがあるんじゃないかな。だから、現在の人間は、ほとんどの人が自分を不幸だと思い込んでいる。
そもそも、不幸ってのは、あるべき現状あって欲しい現状と、そうではない現状を比べることの差だと思う。
だからもし、その現状と理想の比較をしないこと、
もっと言えば、現状が最高ということになれば、不幸というのは、存在しえないということだ。
そして僕は神を信じている。神というか、この世界を作ったものを信じている。これだけ、心の広い、その創造主が、幸福になりえない者を作るはずがないと思う。
〇〇がないと幸せになれないとか、そんなの嘘で、
現在の自分をそのままありのまま受け入れることができれば、
絶対に幸せになれる。そして、その受け入れるというのは、本人の哲学とか努力次第だ。
で、なりたい自分にはなれないかもしれないし、なれない可能性の方が高いと思う。ただ、本当の自分、偽らない、、すの自分というのは、誰もがなれるし、そうなることでしか幸福になれないのに、幸福になりたい人間がそれを目指さないのは、理解できない。
結局、幸福になるということよりも、別のことを望んでいるのだと思うんだ。もし、すの自分を認めることになれば、それは究極的には他者も全て良しとすることになるし、それでは、自分だけが良いという優越感を味わえなくなってしまうからなのだろう。
自分の全てを受け入れるということは、自分の最低最悪な部分さえも受け入れるということになる。というか、それを受け入れないなら自分の全体を受け入れるということにはならないのだ。そしてもし、自分の最低最悪まで認めるのなら、他者の最低最悪まで受け入れないというのはあり得ない。
自分に、その他者の最低最悪が宿っていた場合は受け入れないという判断をするということは、結局違う世界線でのその最低最悪を持っていた場合の自分を受け入れないということになるのだ。
どんなものを持っていても、そして持っていなくても認める、
究極的に全てを削り取った、可能性だけの生命の魂的な何かを受け入れるというのが、自分の存在の全てを受け入れるということになると思う。
そして、それを究極的に極めたものは、神になるのだと思う。
なぜなら、神は、この、世界を作ったのだから。