【卒論ゼミ(3)】研究論文には何が書いてあるのか

さて、第3回です。

2回のゼミを通して、卒論がどんな内容によって構成されているのかについて、結構理解が深まったのではないかと思いますが、「なぜ卒論を書くのか」には、そこまで深く踏み込めませんでした。

前回のゼミ内の議論で面白かったことは、「概念」と「観察」の関係についてでした。「遊び」と「けん玉」の関係とか、「学習」と「段位」の関係とか、そういうことでしたね。ある概念同士の関係を調べたい時に、実際には観察可能な事象同士の関係をみることになるのですが、概念と観察する事象の対応関係が合っているのかどうか、というのは、確かにとても大事な観点です。(しかしその際、問題になっている(=研究の問いにとって中核的な)概念が何なのかを見誤ると、観察している事象の適切さへの批判が見当違いになる可能性もあるということも、議論になりました。)この観点は、取りも直さず、今回のテーマに深く関係することですので、前回のリフレクションとして取り上げさせてもらいました。

さて、今回は「研究論文には何が書いてあるのか」がテーマです。卒論は「未熟な研究論文」だと、第1回で言いました。今回は「プロ」が書いた(未熟ではないと考えられる)研究論文を題材にします。

「いい研究論文をみつけて、お手本にしてね」ということは、例年よく言います。このとき結構な確率で起きるみなさんのリアクションは、何が「研究論文」なのか見分けることができない、というものです。確かに。無理もありません。「本」はたくさん読んできていると思いますが、「論文」というのは大学生がそうそうたくさん読むものではないですよね。実は「本」の中にも「論文」と認定できるものがあったりしますが、何を基準に見分ければいいのかは、よくわからないかもしれません。

そこで今回、3本の論文を選んで読んでもらいました。実はこれらの論文は、特別に完成度の高い論文というわけではありません。むしろ、研究のプロが「一応、これなら論文として差し支えないだろう」というぐらい基準で書いたと思われるものです。なぜそう言えるかというと、いずれも「査読論文」ではないからです。査読というのは、論文が出版されるにあたって、その分野の他の専門家によって行われる事前チェックのことです。多くの場合、そのチェックに合格するために何度か書き直しをして、出版に漕ぎ着けます。こうして出版された論文を査読論文といい、研究論文のなかで最も「ちゃんとした」ものとして位置づけられます。

今回選んだものは、大学の学内のグループが自分たちの業績を査読を経ずに出版できる「紀要」(査読がある紀要もありますが)というものに載ったものが2本と、書籍として出版された論文集に収録されたものが1本です。後者は、著者グループのなかでの検討会を経たりすることが多いですが、著者同士のチェックですのでいわゆる「査読」とはみなされません。というわけなので、いずれも「一番ちゃんとした」論文とは言えないのですが、プロが書いて世に出す以上、一応、論文としての体裁を最低限守ろうとしたものだと考えられます。実際に、私がみる限り、みなさんが研究論文の「作法」を理解するために、わかりやすいお手本になっているのではないかと思います。

さて、それでは、研究論文とその他の形態の著作とを分けるものはなんでしょうか? あるいは、多くの卒論(素人の力作)とプロの研究論文とを分けるものは、なんでしょうか? 「問い」と「答え」があって、それをつなぐ「方法」がある。ここまでは、「卒論を読む」課題でも明らかになったことです。それ以外に挙げるとすると、まずは次の2つではないかと思います。

第1に、参考文献が事細かに挙げてあることです。巻末に参考文献が挙げてある本というのは、研究論文でなくてもあります。ここでポイントになるのは、「事細かに」ということです。つまり巻末リストだけでなく、本文中をよくみてみましょう。場所によっては一文一文に、また一人ではなく複数の著者の名前がその文献の発行年とともに付記してあると思います。また、一度出てきた文献が、それに続く箇所に何度も何度も付記されていたりも、しているかもしれません。

研究論文というのは、新しい知識を生み出すために書きます。そういうと、世紀の大発見みたいに思うかもしれませんが、全然そうじゃなくてよいのです。既に存在する知識の上に、ちょこんと付け足すのが一つの論文の最低限のお仕事です。そうなると、既存の知識はどこまでで、ちょこんと乗っけた部分がどこなのかを、明記することが大事になります。別の言い方をすれば、他の人が言ったことと、自分が言っていることを分けることです。これが研究論文に求められる最低限の作法です。

ところで、知識というのは英語でknowledgeといいますが、これは不可算名詞です。一個二個と数えられるものではなく、総体としてボカッと存在しているのが知識です。(ただし、そのどの部分に誰が貢献したのか、というのは、しっかり切り分けて評価してあげるべきで、だから事細かに参考文献をつけます。)これと関連して、日本語で「既存研究」とか「先行研究」とかいったりしますが、これを英語ではliteratureといい、これもまた不可算名詞です。

つまりliteratureというのは、知識の総体が記載されたメディアの総体だと理解できそうです。先行研究を精査することをliterature reviewというのですが、先行する研究のなかの何かを選んでレビューするのでは不十分で、関連する知識の集合体のなかに分け入っていかないといけないのが、先行研究レビューという作業です。そういえば、研究をresearchといいますが、これも不可算名詞ですね。知識に関するものって、徹底して不可算ということなのかもしれません。

さて、なので、研究論文では、総体として存在する既存知識に対して、自分が新たに付け加える一片の知識が、どこの部分にどうやって接続するのかを、説明しようとします。新しいというのは、ただ単に誰も知らないことなのではなくて、既に誰かが知っていることに、できればなるべく意味のある形で、付け加えられたもの、ということなのです。(卒論生の多くは「まだ誰もやってないこと」をやろうとしますが、そうするとすぐ類似のことをやっている誰かさんをみつけてしまって、がっかりすることになります。むしろ誰かがやっていることがみつかれば、それに何を付け加えると、その誰かが喜ぶかを考えるといいかもしれません。)

第2のポイントは、「理論」があるかないかです。もっというと、「理論的枠組み」があるかどうか、です。社会学にとって「理論」とは何かというのは、なかなかの難題です。ここでは、抽象概念によって社会的現実を説明しようとする試みのこと、としておきましょう。(ここで、冒頭の「概念」と「観察」が関係してきます。)前回書いたように、社会的現実というのは、実態が捉え難いものです。理論は、この捉えどころのない現実に、捉えどころを与えてくれるものだと言えます。

なんだかわかったようなわからないような言い方になってしまっていると思います。とっかかりとして、私自身がどのように「理論」を活用しているかを話してみましょう。まず、研究者が観察できる現実というのは、いつもとても限定的です。しかし、その限定的なものをみて、実際には観察していないことについての知見を得ようというのが、研究です。

例えば、帰納的な推論というのは、同じような出来事を何度も何度も観察していると、大体同じような別の出来事に帰結する、という観察を踏まえて、次に同じような出来事が起きれば、また同じような別の出来事に帰結するだろう、と考えるわけです。この時、観察の数が十分に多ければ、推測が外れる確率がすごく低くなる、というのが統計学の考え方です。しかし、この場合も、実際に観察した数が有限なのに対して、これから起こりうる出来事は無限です。観察できるものとできないものは、原理的に非対称になっています。統計的推論という「枠組み」があることで、「十分に多い観察数」というものを決めることができる。これが「理論」(この場合、統計学的法則性)の力です。

限られた観察から、それに類する他の現象についての説明力(≒結果を正確に予測する力)を高めようとすること。この形式は、観察数の少ない質的研究でも同じだと、私は考えています。研究対象とする事例が、どんな現象を説明する力を高めるために選択されているのか。これをしっかりと説明できることが大事です。(例えば、「ある理論が正しいとするならば、これこれの条件ではこれこれが観察されるはずだ」というのが、演繹的な推論です。「仮説」というのは多くの場合このようにして導出します。理論的含意theoretical implication なんていうのも、そうやって導きます。)

要注意なのは、ある出来事を観察した時「これは何々理論でいうところのコレコレの事例だ」と、ad hocに言ってしまうことは、いくらでもできてしまうことです。だから単に理論への言及があるというだけでは、困ります。一貫した体系の枠内で、対象となる事象を捉えているのだ、ということを明示してあるべきで、これを「理論的枠組み」というわけです。(「主観的」と批判されがちな「解釈」のintegrityを担保してくれるもの、というふうに言えそうですが、これはまた別の機会に。)

勘がいい方はお気づきかもしれませんが、理論というのも、既存知識の一部です。なので、研究論文は実はある理論にまつわる知識に、新しい知見を付け加えるという形になっていることが多いです。それは、その理論ではまだ説明しきれてない何かが発見されたということかもしれないし、その理論ではまだ説明していなかったものが説明できることが発見されたということかもしれないし、その理論がより精緻に説明できるように改善されたということかもしれないです。

研究というのは、既存知識を更新し、よりよいものの見方(理論)を作っていくためにするのだ、という雰囲気が、伝わりましたでしょうか?(私もこんな結論になると思いませんでしたけど。)

今回は、わかりやすい説明からは程遠かったかもしれません。卒論で「理論」を使いこなしたり、その更新に貢献したり、というところまでいくことは、非常に稀です。同時に、卒論をやり終えて「扱った対象についてはよくわかったけど、それがどんな意味があることなのかよくわからない」という感覚を持つ人が、結構いるという印象を持っています。先輩の卒論を読んでみて「研究の着想は大きかったのに、やったことは小さなこと」というふうに思った方もいましたね。このギャップを架橋してくれるのが、理論なのかもしれません。

今回はここまでで時間切れのようです。次回はもう少し地に足をつけて、「問いを鍛えるプロセス」について考えてみましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?